演劇

多民族・多言語・多宗教のモザイク社会を表現するジョー・クカサス

Jo Kukathas (photo by Faizal Mustafa)
ジョー・クカサス / Jo Kukathas (photo by Faizal Mustafa)

多様な民族が隣り合わせに共生し、お隣さんは食文化も言語も違うマレーシア。マレーシア現代演劇で代表的な「インスタントカフェ・シアターカンパニー(ICT)」の劇作家、演出家として、民族、宗教、政治など様々な側面を巧みに切り出し表現するジョー・クカサスさん。昨秋、フェスティバル/トーキョーのマレーシア特集『NADIRAH』でも演出家を務めました。公演のため来日した同氏にマレーシアの現代演劇と同作について聞きました。

Jo Kukathas (photo by Aki Uehara)

ジョー・クカサスという人物

大きな目で相手を見つめながら、演劇の話になると息継ぎの間もないほどの早口で語るジョーさん。政治ジャーナリストであった父親の仕事の関係で幼少期からオーストラリア、香港、インドなど海外を拠点に過ごし、イギリスの大学を卒業後、母国マレーシアに戻ったのは20歳を過ぎてから。そんな生い立ちが、人種問題や政治風刺をテーマに、英語に限らず多言語で舞台を作り上げる彼女の演出スタイルにも影響しているようです。

彼女の中には社会に対し辛辣に、皮肉たっぷりに発言する様々な人格が存在します。公の場での公演には上演許可が必要なマレーシアで、社会のいわゆる「微妙な」問題を扱う彼女の舞台は、検閲、上演許可との折り合いをつけながら創作活動を続けているのです。「これは権力者とのゲーム。それも舞台芸術の一部」なのだといいます。

1990年代から国際交流基金や世田谷パブリックシアター等のプログラムで日本との国際共同制作(※)に参加。「日本はアジアのなかで独特の立ち位置を築いています。だからこそ、日本がアジアの舞台人が集い交流する機会を創出することは、アジア諸国にとっても、日本にとっても重要」と語ります。

※『あいだの島』(2001)、『ホテルグランドアジア』(2005)、『ブレイク-ィング』(2008)などの作品に携わる。

『NADIRAH』東京公演(撮影:青木司)

マレーシアの現代演劇

1960年代、マレーシアでは生活やアイデンティティに関する多くの演劇作品が英語で書かれていました。しかし、1969年の民族衝突の後、「文化政策」が作られマレー語演劇に支援が集中するようになり、多くの劇作家は書くことをやめてしまったといいます。「これは私たちにとってかなりの打撃でした。『書く』文化が育たなかったのもそのせいだと思います」。その後、マレーシアの演劇はマレー語、英語、中国語など、言語による住み分けが起こりましたが、近年、ジョーさんが手がける多言語の作品が人種を超えた聴衆を集めているようです。

『NADIRAH』東京公演(撮影:青木司)

『NADIRAH(ナディラ)』

2016年秋、フェスティバル/トーキョーで上演された『NADIRAH』では宗教や信仰、他者を受け入れる寛容さなどについて様々な問いかけがありました。異教徒間の恋愛や宗教的なテーマを描くこと、語ることにあまり馴染みがない多くの日本の観客がこの舞台をどのように受け止めるのか、とても興味深い作品でした。「マレーシアの観客はとてもオープンですから、このようなテーマの作品を切望しているのです。権力者たちは、センシティブな問題を扱った作品は気に入らないでしょうけど。限られた資金の中で、貴重な時間と労力を使って作り上げる舞台ですから、本当に大事だと思えるテーマを扱いたいのです。日本では、宗教などをテーマに描くことはタブーだと聞いたことがありますし、観客は字幕を読み、それと同時に舞台の設定を理解する必要があるので少し不安もありました。でも、日本のお客さんの反応を見て、とても嬉しかったです。これは、今後の交流につながる良いサインだと感じました」。

「1989年にカンパニーを始めた頃、マレーシア人にはユーモアのセンスがないからブラック・コメディーや政治風刺はやめた方がいいと言われました。でも、実は社会の時事問題や政治的な皮肉は伝統的な影絵芝居の中でも道化などによってよく語られているし、この土地に根付いた文化なのです」。

現在、ジョーさんはこのようなテーマで作品を書ける作家を養成するためクリエイティブ・ライティングの講座を開いています。そして、マレーシアでも、日本でも、若手の舞台人がさらに活躍をし、交流が深まることを期待していると語ってくれました。 


舞台字幕用の翻訳を終えて

『NADIRAH』東京公演に際し、字幕用の台本翻訳を担当しました。多くの日本人には馴染みの薄いイスラムの慣習、男女の密会を取り締まる機関があるということ、異教徒の愛する者同士が結婚を望むことで家庭が壊れるような衝撃となる現実、それが日常的に話題になるような社会をどのように日本語で表現し、伝えるのか。そのことに苦労しましたが、公演を終えて感じたのは、この作品の根底にあったのは、どこの国でも変わらない信仰心と親子、家族の愛という普遍的なテーマだったのです。


取材・文 Aki Uehara(Mutiara Arts Production)
写真提供 フェスティバル/トーキョー16


[この記事はWAU No.11(2017年3月号)の巻頭記事から転載しています。]

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