マレーシアは名建築の宝箱。熱帯の気候、多民族のおりなす文化的な多彩さ、また施主と建設技術者の奮闘は、多くの魅力ある建築を生み出しました。それぞれの建物にはマレーシアの社会や歴史、日々の暮らしがよく表れています。また著しい経済成長は、新しい建築を次々に生み出しています。
ここでは、マレーシアの建築の魅力とともに、それぞれが建てられた時代や背景、その見どころに迫りたいと思います。

その10 クチン旧裁判所:「白人王」ブルックの築いた街と建築群
名称: クチン旧裁判所(The Old Court House Kuching)
用途: 公務所、裁判所等。現:観光施設
位置: Jalan Barrack, Kuching, Sarawak
竣工: 1874年以降、複数期にわたる
敷地面積: 約12000㎡
構造: 煉瓦など
階数:1階(一部分2階)。棟数:約10棟
構造:煉瓦造、鉄筋コンクリート造など
ブルック記念碑に描かれた世界
東マレーシア、サラワク州の州都クチン。サラワク川の河畔公園と、旧裁判所の間に、高さ約6mの四角柱の石碑が聳えています。町の人には「ブルック記念碑」(Brooke Memorial)と呼ばれて親しまれています。建設は1924年で、当時、クチンと周辺地域の開発が進んだ時期でもありました。
碑の港を望むその正面には、2代目「白人王」だったチャールズ・ブルックのひときわ大きな白大理石のレリーフが飾られています。それを取り囲むように、碑の隅部のそれぞれには、サラワクの主要な民族集団である、マレー人、ダヤク人、カヤン人、中国人の民族服を着た人物像がはめ込まれています。石碑の全4面にチャールズ・ブルックの生没年とともに「ラジャ」、すなわちこの地の王に就任した年が英語、中国語、アラビア語で刻まれています。
4民族の民が、ブルックを囲む「王国」の姿・・・。この像はサラワク州の道路元標でもあります。この石碑は、クチンのみならずサラワク王国、そして巨大なボルネオ島。「白人王」としてこの地に君臨したブルック3代の栄華をなによりも表しているようです。

「白人王」ブルックとサラワク王国
ボルネオ島は広大で、内陸部は急峻な熱帯雨林の山々が続き、平野は大小の川がうねるように流れています。なにしろサラワク州だけでマレー半島部の西マレーシアよりもひろいほどです。北の海はフィリピン諸島につながっていきます。
英国などの植民地支配がおよぶまでは、土着の領袖が群雄割拠しそれぞれに河川の河口部に集落を築き、上流部を支配していました。それが1824年の英蘭協約により、ボルネオ島は北部を英領、南部をオランダ領に分割されることになりました。そこへ登場するのが30代の英国人探検家、ジェームズ・ブルック(James Brooke)でした。
以前から、この地を治めていたブルネイ王は周辺諸国との紛争や、原住民との紛争に悩んでいました。ブルネイ王は、諍いを首尾よく鎮めたブルックに、「ラジャ(王)」の称号を与えました。そして彼は英国保護国としてサラワク王国を治める「白人王」(ホワイト・ラジャ)として君臨することになりました。そして、初代のジェームズ以降、3代にもおよぶことになります。
ブルック3代の足跡はサラワク博物館や史跡などにたどることができます。そこでのブルックに対する語りは、かつての植民地支配者に対する心情よりも、むしろ英雄譚が目につきます。ある意味、「白人王」ブルックはやり手でした。英国植民地として統治制度を巧みに構築しつつ自らの統治の正統性を内外に示していきます。一方で、土着の様々な民族同士の関係性や社会構造を読み解き、時に互いを争わせ、巧みに首領らを傀儡化し、自らを君臨させてゆきます。
もっとも、ブルックのもたらした功績も大きなものでした。内陸を切り拓き、産業を興し、その壮麗さで知られるクチンの街を築きました。
実際に、クチンの街は当時から高く評価されていました。20世紀初頭の街の様子を、オーサー・ワード(Authur B. Ward)は、「多くのオープンスペースを有し、公園には草花が咲き乱れている。法律もよく守られている。(中略)小さな理想国家のようだ」とさえ絶賛しました(*1)。ブルックに対する後世の評価も、彼が築いた壮麗な町並みと、その建築群によってもたらされたのではないでしょうか。
美しいクチンの街や建物をみていると、ブルックはある種のセンスを備えた都市計画家や建築家のようだとも思えてきます。ブルックの残したいずれの建築物も、歴史上の多くの「王」が築いた都市や建築・・・民が震え上がるような威圧的な外観や、競合相手に見せつけるための成金趣味な作りこみは見られません。どれもが、さっぱりと品良く仕上がっているのです。


ブルックの築いた街。クチン
クチンの旧市街は、大蛇がうねるように流れるサラワク川の南岸に拓かれた。河口から直線距離で20kmも遡るこのあたりでも川幅は100m以上あります。最近の開発が及ぶまで、北岸にはブルックのアスタナ(宮殿)がある程度で、村々が点在していました。
サラワク川の桟橋に面する中心街区の要に、ブルックらが執務をとりおこなった公務所(Public Office)が建てられていました。これが後の裁判所建物となりました。この界隈から、緩やかな傾斜地に敷かれた2本の道に面して郵便局、エスプラネード(広場)、博物館、教会などが軒を連ねています。丘陵には学校や病院が設けられました。河岸には、港湾機能として、サラワク汽船事務所、ブルック船渠、税関、倉庫が建ち並びました。
この中心街区を囲むように、東には中国人街区が設けられました。中国廟や同祖廟、商工会とともに市場、様々な業種のショップハウスが建ちならびました。サラワク川の河岸は、荷揚げし商いをするのに便利な場所でもあります。クチンの中国系では客家が多く、1846年には自らの主領となるカピタンが選ばれています。彼らはマレー系やダヤク族の人々と交易を行い、財を成してゆきます。
この反対側の西の界隈は、往時はクリン(Kling)通りと名付けられた、インド系モスリムの寺院やヒンズー寺院が立地しています。この地区に暮らした人々はインド系のイスラーム教徒が優勢でした。この界隈は、現在はリトルインディアとも呼ばれます。
市街地の周囲と、サラワク川の北岸にはマレー人や少数民族のカンポン(村落)が点在しています。マレー系は1840年前後にミナンカバウから流入してきました。
こうしてクチンの市街地を俯瞰すると、街は、西欧人の界隈を核に、それをそれぞれの民族集団の占める界隈が囲うように配置されているのが分かります。まるで「ブルック記念碑」の世界観、社会の構図をクチンの都市空間に拡大し映し出したかのようです。
もっとも、ブルック王国の初期は治安が悪かったようです。サラワク川の上流で鉱山開発を行っていた中国人が、税に対する不満などから反乱を起こしたこともあります。騒乱は、町全体に波及し、ブルック自身の屋敷も焼かれ身の危険が迫ったほどでした。これに対してブルックは、勇猛さで知られるイバン族に町に近い土地を与え、防衛線としました。
後には防衛力を高めるため、サラワク川下流域の南シナ海につながる多くの支流の河口域に砦を設けています。クチンの街の中心には、旧裁判所とサラワク川の間にスクエア・タワー砦が、対岸にはマルゲリタ砦(Fort Margherita)がそれぞれ1879年に設けられています。
白亜の旧裁判所の建物群

クチンの街の要として築かれたのが、行政機能を担った公務所でした。現在、旧裁判所として愛されている白亜の建物群です。元々、この土地にはドイツ人宣教師が1840年代に開設しようとした学校の校舎がありました。ただし、この学校は宣教師自身の帰国により開校されることはありませんでした。
そこでジェームス・ブルックが、公務所と裁判所として用いることにしました。それまでは、ブルックの公邸で公務や裁判が行われていたのです。(*2)
ただ、街が大きくなるにつれ、この公務所は手狭となり、新しい施設が必要になってきます。そこで1874年に2代目のチャールズ・ブルック(Charles Anthony Johnson Brooke)下で、公務所(のちの裁判所)が建築されることになりました。2代目ブルックは、クチンに多くの建物を建てた人物として知られます。しかし、公務所の完成まで建材不足などの悪条件もかさなり完成まで7年間を要しました。
待ちに待った竣工式には大勢が集まり、町中をパレードの列が練り歩いたそうです。完成した建物はクチンのみならず、ボルネオ島でも最大かつ豪華な建物になりました。市民の受け止めも上々でした。新聞報道でも「建物はその用途にふさわしく凛々しくシンプル。コロニアルでも西洋の建築美をひけらかすこともなく、眼をそむけたくなるような醜悪さもない」(*3)と好意的でした。
旧裁判所は、サラワク川に対面して据えられました。河畔は客船桟橋として賑わっていて、監獄や砦として用いられた、⑩スクエア・タワー(Square Tower)が建っています。現在は河畔の公園として整備されています。この内陸側に冒頭にみたブルック記念碑が屹立しています。
この河畔に対して両翼を広げるように、白亜の旧裁判所の建物は建てられました。建物のファサードは、①ブルック記念碑からみて、シンメトリー(左右対称)で重々しく威厳があります。サラワク川の桟橋に上陸した船客がまず目にした建物がこの旧裁判所の建物だったでしょう。クチンの繁栄とともに、ブルックの統治の盤石さを印象づけたに違いありません。
旧裁判所の建物は煉瓦造の平屋建てです。建物は複数期にわたって内陸側へ順に増築されていきました。それぞれの時期により裁判所や財政監査局などとして使用されてきました。
最初に建てられたのが、①ブルック記念碑に面する部分で1874年の建築。②裁判所法廷としても用いられ一連の建物で最大規模です。当初は、天井が貼られていませんでしたが、1950年代にダヤク族の民族意匠が用いられたパネルがはめ込まれました。
その左右の部分が第一期増築(1883年)でできた③両翼部でした。続いて第二期増築(1900年前後)では④中庭周囲の部分が設けられました。このようにして奥へ奥へと建築されていきました。最後に建てられたのが⑤財務局建物で1929年の建築でした。この部分は当時の新技術でもあった鉄筋コンクリート造が選ばれました。
このように、1870年代から1930年代に至るまで、長期にわたって幾度もの増築を繰り返しても、建物の群として調和がとれています。すべての棟が白亜の壁面で仕上げられ、屋根も揃いの勾配と葺材のため、全体として統一感が醸し出されているのでしょう。また建物は少数民族をはじめとするサラワクの民家建築の形を模したようにも見えます。同じスケール感の建物が身を寄せる姿は、村落のようにもみえます。
細部にも工夫がなされています。ブルック記念碑に面した玄関口は、トスカーナ式(Tuscan Order)の円柱に支えられた⑥時計台があり、玄関上部にせり出しています。二階部分となる時計台の室では、市議会などが開催されたそうです。この部分のみが傾斜屋根がかからずのアクセントとなっています。頂部には大時計がはめられ、壁面の半ばには「1883AD」と刻まれています。この年は、先に述べた第一期の増築の時期にあたります。
見かけ10棟からなる建物群は、それぞれの四周を簡潔なシルエットのトスカーナ式の列柱が外廊下を取り囲んでいます。この廊下が回廊のように連なって異なる棟をつないでいます。雨の時には大屋根を流れ落ちた雨だれが薄い軒先からしたたり落ちる。スコールの降る夕方でも棟の間を往来できる回廊は重宝したでしょう。日照りの日には、深い庇が、涼しい日陰を作り出します。
この回廊は、噴水が据えられた中庭を取り囲みます。棟がことなっても、軒の高さや、列柱の間隔が揃えられています。廊下の巾も2m程度でゆったりとしています。屋外の熱帯の木々が白亜の壁に一層映えています。
廊下から各室内部へは、それぞれに大ぶりの両開きの扉が設えられています。扉枠の上部には、カイゼル髭のような形の装飾が施されています。一方でこのほかの壁面にはレリーフや帯飾りのような装飾は施されておらず簡素に仕上げられています。
内部には各所に絵画や彫像を飾る壁面やニッチが設けられているがこちらも装飾は多くはありません。公務所として、部屋の主が変わった時点で好みの置物や絵画に掛け替えればよいとの判断でしょうか。一部は中2階が設けられていたようで、入母屋の屋根を持つ棟は妻面に小窓が設けられています。ただし居室としては天井の高さは足りないため倉庫として用いられたのでしょうか。
屋根の形は、建築時期の古い部分は寄棟(よせむね)で、後に建てられた部分は入母屋(いりもや)屋根です。20度程度の緩やかな勾配屋根がかかっています。屋根は、「ビリアン(belian)」と呼ばれる材木で全面が葺かれています。葺板の大きさは長さ50cm、幅10cm 程度の薄板でした。ビリアンはボルネオ島で広く自生する樹種です。「鉄木(Ironwood)」とも呼ばれ硬いうえに水にも耐え白蟻の害にも強い優れものです。植民地支配以前からも民家建築などで用いられてきました。旧裁判所では、ビリアン材が廊下の床にも用いられています。この濃褐色のビリアン材葺きの屋根が、白亜の壁とのコントラストを引き立てています。






ジャパニーズ・ビルディング(Japanese Building)
これらの建物群に加えて、戦時中に日本軍により一棟の建物が建築されました。現在、⑪ジャパニーズ・ビルディングと呼ばれる2階建て建物です。日本軍は1941年にミリに上陸しサラワクを手中に収めました。クチンを拠点とした日本軍は旧裁判所建物も接収し軍政に用いてゆきます。
日本軍は旧裁判所の建物群と、その南に建てられた財務局(1929年建築)をつなぐようにこのジャパニーズ・ビルディングを建てています。敷地は、元は街の東西を往来する通路でした。工事には戦争俘虜(POW: Prisoner of War)として、ブルックの元で働いていた事務官や抗日運動を支えた人々が俘虜となり使役されることになりました。
完成したジャパニーズ・ビルディングは白亜の外壁で板葺きの傾斜屋根など、日本占領期以前に建てられた旧裁判所建物に一見して似ています。ただしこの建物だけ、柱は四角柱で、背の高さも他と比べると幾分高くなっています。
南北棟のこの建物は、ブルック時代から建てられてきた旧裁判所の建物群に加えられたのですが、位置的には西のインド人街と、東の中国人街を分かつ結果となりました。日本軍政は、この街と民を分かつ目的で、ここにこのジャパニーズ・ビルディングを設けたのでしょうか。
戦争が終わり日本軍の去った後、1階の中央部がくり貫かれ街の東西をつなぐ通りがもうけられました。これにより街の往来が再開しています。もっとも、街の人は建物を全て壊してしまうことも出来たでしょう。それでも、この建物は残されることになりました。そして今もジャパニーズ・ビルディングと呼ばれています。
旧裁判所はブルックがサラワクを去った後も、クチンの街の要にあり続けました。1970年代にはボルネオ高等裁判所(High Court of Borneo)として用いられました。翌年の1971年には古物保存条例による文化財に定められています。サラワク州では最初期の指定となっています。現在、サラワク州が所有しています。2000年に裁判所が移転をしたため州政府を中心に再整備が行われ、観光案内所や飲食店、博物館などとして利用されることとなっています。再整備では、サラワク遺産協会(Sarawak Heritage Society)が監修し海外の専門家の技術支援を得て修理されています。


クチンとサラワクの歴史を語る名建築群
「白人王」ブルックの3代におよぶ治世は、1946年に幕を閉じました。日本軍が去った後、再び「ラジャ」の座を受諾しなかったのです。これにより、ブルック3世は大金とともに好物だった大量のジャムを手に入れたのです。
ブルック3代が去った後も、彼らの残した建築群は、旧裁判所以外にも多くが残されています。ブルックは市街地の防火対策にも乗り出しています。1884年の大火を受けて、木造だったショップハウスを煉瓦造で建てるように指示。また屋根はビリアン材で葺くように指示をしています。ショップハウスの正面の一階部分に「ベランダ・ウエイ」を設けるように指示したのも同じ時期のこと。シンガポールの町並みに影響を受けたとの説もあるようです。
もちろん後の開発で姿を消した建物は少なくありません。また市街地には高層の新建築も建てられました。それでも、これほどの美しい歴史的建造物が、徒歩の範囲内に並ぶ街は他にあるでしょうか。いずれもが修理を丁寧に施し維持管理されており、クチンの人々の愛着を感じます。
そのうちの代表的な建物を取り上げたいと思います。
旧裁判所に隣接して、⑦ラウンド・タワー(The Round Tower)が建っています。二階建てで瓦葺きの煉瓦造。1886年に建築され、中国人街を貫くカーペンター(Carpenter)通りに正面を構えています。当初は、衛兵署として用いられました。第二次世界大戦中は日本軍に占拠され、戦後は薬事局、さらにその後は裁判所建物となりました。なんともキノコのような不思議な形の建物で、正面の両脇に円筒型の壁がついています。
この隣に、⑨パビリオン(Bangunan Pavilion)と呼ばれる、これも白亜の建物があります。1909年に建築され、医事局や西欧人向けの診療所として使われました。その後、教育庁事務所などとして利用されていました。サラワクの建築物としては最初期に鉄筋コンクリートを使用した建物としても知られています。建物前面にベランダを設け、開口も大きく軽快で、また柱や手摺りにも細やかな装飾が施されています。
通りの反対側には、⑧クチン中央郵便局(General Post Office Kuching)が建っています。1932年建築でネオ・クラシック様式。設計はシンガポールの建築会社(Swan & Maclaren)に所属したデニス・サントレー(Denis Santry)が行いました。建築当初は銀行や測量局などの行政機関として用いられました。後には電信電話局も入居し情報ハブとしての役割を果たしてきました。
この建物は、その間口は目抜き通りに面して80mにおよびます。中央に高さ9mのコリント様式の柱が10本並び、それがペディメントを支えています。街路に面する部分には柱廊が設けられています。カーペンター通り側の角にはアーチのかかる入り口があります。軒裏には花弁形の装飾が点々とつき、一方、床には白黒のモザイクタイルが敷き詰められています。窓口前には、研ぎ出しで正面に木扉の付くポストも据えられています。この先、州機関にもどそうとの検討も行われているそうです。
そこから、さらに内陸側に英領時代からしばらくはロック(Rock)通りと呼ばれていた、トゥン・アバン・ハジ・オペン (Jalan Tun Abang Haji Openg)通りが延びています。右手に大きな広場のエスプラネード(Esplanade)がみえます。現在はメルデカ(Merdeka)広場と呼ばれています。元は湿地でしたが、今は周囲を小高い丘に囲まれる緑が溢れる広場です。
さらに、緩やかな坂を上がると、左手に白亜の州立サラワク博物館(Muzium Negeri Sarawak)が見えます。ボルネオ初の博物館で1891年の開館。こちらも正面玄関を中心としたシンメトリーの白亜の建築物で、クイーンアン・リバイバル様式で建てられています。
この博物館建物は幾度かの増築を経ています。玄関から見て左手の建物半分は1912年の増築で、当初はベランダを前面に持ち、また壁はレンガのあらわしでした。その後、1940年には白漆喰が施された上に、ベランダ部分に壁が設けられ室内化しています。これに合わせて外階段も撤去されています。こんな大増改築を行ったことを感じさせないほどの統一感と出来映えです。室内では、架構などの天井回りが新旧部分で異なっています。
クチンにはこのほかにも、美しい建物が多く残っています。サラワク川河畔の⑩スクエア・タワー(Square Tower:1879年)。その対岸にはマルゲリタ砦(Fort Margherita:1879年)がサラワク川を睨んでいました。2024年時点で建物再生中の造船工場ブルック・ドックヤード(Brooke Dockyard:1912年)もこの先どうなるか楽しみです。
このほか、最近建てられたサラワク州議会建物(Sarawak Parliament:2009年)や、サラワク川を渡るダルルハナ橋(Darul Hana Bridge:2017年)の姿も観光客の目を引いています。
もう一つの裁判所。中国人裁判所(The Chinese Court)
街の中央に、法の殿堂である裁判所を据えたブルックは、もう一つの裁判所を設けています。市街地の東に広がるチャイナタウンの、さらに東端に中国人裁判所(Chinese Court)が設けられました。現在、クチン中華博物館(Kuching Chinese Museum)となっています。
この建物は公共事業局の建設によるもので1912年の築。裁判所時代は、専ら中国人の婚姻届けや財産分割などを司る目的で設けられました。中国人社会を束ねたカピタンのオン・ティンシー(Ong Tiang Swee)が初代座長をつとめ6人の理事とともに運営を行っていました。オンはサラワクで最も成功した実業家かつ篤志家としても記憶されています。
建物正面は玄関口が左右に2つありシンメトリーです。現在は建物の両翼部に高さの低い部分があるが、建築当時の写真を見る限り後の増築のようです。玄関口上部のペディメントには、公平公正を表して秤のレリーフが据えられ龍の装飾もにらんでいます。
内部は、46フィート角と、15フィート角の正方形平面の二つのホールがあります。往事は法廷として用いられたとのことです。インテリアは質実だが細やかなつくりです。床も天井も板貼りですが、天井板は板目を45度の角度をもって張られています。室の中央と隅部にはコリント式の柱が据えられていますが、細部の彫刻などの装飾は中華風のものが施されています。
裁判所としての役割は短く、1921年に裁判所は閉じられています。その後、商工会議所などとして利用され1993年に中華博物館となっています。
今、この中国人裁判所の周囲は河畔の公園になっています。往時は中国人街の外れで、旧裁判所からみてもクチンの街の東の端でした。一方、中国人社会からみればこの裁判所は中国人社会の中心であり、人々の結束と正義の証でもありました。








写真、イラスト:宇高雄志
(*1) Authur B. Ward 1966 “Rajah’s Servant” Southeast Asia Program, Dept. of Asian Studies, Cornell University.
(*2) 1847年にルター派のドイツ人宣教師がこの土地に学校を建設しようとした。この時期、クチンは8千人程度の人口があり、このうち数百がインド人、また150人程度の中国人商人がいた。木造二階建ての校舎が建てられたが宣教師自身の帰国により、学校は建設半ばで開校されることはなかった。
(*3) ‘Leader’ The Sarawak Gazette, 16 May 1874
主な参考文献
- Chen Voon Fee (ed.), 2007, Encyclopedia of Malaysia V05: Architecture: The Encyclopedia of Malaysia, Archipelago Press.
- Alice Yen Ho, 1999, Old Kuching (Images of Asia), Oxford University Press.
- Mike Boon, John Ting, 2012, Conservation in Sarawak: The case of the Old Kuching Courthouse, The Proceedings of the 29th Annual Conference of Society of Architectural Historians Australia New Zealand, pp.124-139.
- John Ting, 2012, Courts in Kuching: The development of settlement patterns and institutional architecture in colonial Sarawak, 1847–1927, Proceedings of the 29th Annual Society of Architectural Historians Australia New Zealand Conference, pp.1119-1135.
- John Ting, 2018, The History of Architecture in Sarawak Before Malaysia, Malaysian Institute of Architects.
- Ho Ah Chon, 1995, The Sarawak River, See Hua Daily News.

宇高 雄志(うたか・ゆうし) 兵庫県立大学・環境人間学部・教授
建築学を専攻。広島大学で勤務。その間、シンガポール国立大学、マレーシア科学大学にて研究員。その後、現職。マレーシアの多様な民族の文化のおりなす建築の多彩さに魅かれています。なによりも家族のように思える人のつながりが宝です。(Web:https://sites.google.com/site/yushiutakaweb)
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※ 本コラム「マレーシア名建築さんぽ」(著者:宇高雄志)は、最新版のみ期間限定掲載となります。写真、イラスト等を、権利者である著者の許可なく複製、転用、販売などの二次使用は固くお断りします。
*This column, “Malaysia’s Masterpieces of Architecture” (author: Prof. Yushi Utaka) will be posted only for a limited period of time. Secondary use of photographs, illustrations, etc., including reproduction, conversion, sale, etc., without the permission of the author, who holds the rights, is strictly prohibited.