建築

マレーシア名建築さんぽ #5 セントラルマーケット

マレーシアは名建築の宝箱。熱帯の気候、多民族のおりなす文化的な多彩さ、また施主と建設技術者の奮闘は、多くの魅力ある建築を生み出しました。それぞれの建物にはマレーシアの社会や歴史、日々の暮らしがよく表れています。また著しい経済成長は、新しい建築を次々に生み出しています。 

ここでは、マレーシアの建築の魅力とともに、それぞれが建てられた時代や背景、その見どころに迫りたいと思います。

セントラルマーケット(イラスト:©︎宇高雄志)

その5 セントラルマーケット:市場のにぎわいを、よみがえらせる

名称:セントラルマーケット・クアラルンプール (Central Market Kuala Lumpur)
用途:商業施設。(旧)生鮮市場
建築の経緯
市場開設:1888年
元・生鮮市場(1937年竣工)設計:市衛生局(担当建築家:Lee Yoon Thim、他)
現・セントラルマーケット改修(1986年竣工)設計:William Lim Associates、他

現事業主体:セントラルマーケット社
位置:Jalan Hang Kasturi, Kuala Lumpur
建築面積:5800㎡、2階建て(改装後)
構造:鉄筋コンクリート造、一部・鉄骨造。


市場はどこに?

「パサー・セニ」。クアラルンプールを走る鉄道線・ラピッドKLのクラナジャヤ(Kelana Jaya)線に乗ると聞こえるあのアナウンス。間もなく、パサー・セニ駅(Pasar Seni)に到着です。マレーシア語のPasar(市)とSeni(アート)。芸術市場(アートマーケット)と訳せばよいでしょうか。

しかし、パサー・セニ駅を降りても、そこに市場はありません。確かに、チャイナタウンに近接し、にぎやかな繁華街であるのは間違いないのですが・・・。

セントラルマーケット:解体の危機に瀕して

古今東西、市場は人々の暮らしの中心にありました。人々の胃を満たし、モノを商い、買う。都市と地方はここでつながり、耳よりな情報も伝えられてゆく。朝の生鮮市場、街角の屋台や露店、祭礼のパサー・マラン(夜市)・・・・。この巨大都市クアラルンプールにとって、また多民族社会マレーシアの日常生活において「パサー」は、まさしく人々の暮らしを表してもいるでしょう。

駅名のパサー・セニは、クアラルンプールの有数の観光客の訪問先として知られる「セントラルマーケット・クアラルンプール」の別名でもありました。セントラルマーケットはすでに130年の歴史を誇るクアラルンプールの市場の古株でした。

市場は、中国人カピタン(*1)のYap Ah Loyにより1888年に開かれました。魚や野菜、肉、何でもそろう、街の台所でもあったのです。クラン川のほとりに立ち、東にはチャイナタウンにつながる絶好の位置でした。

後に市場は老朽化し1930年代に建て替えられました。これにより市場は、現在のセントラルマーケットの姿になりました。建て替え事業は市・衛生局によって行われ、このもとで建築家Lee Yoon Thim(*2)らによって設計が行われました。

1957年にマレーシアは独立。クアラルンプールの人口は急増しました。都心は過密化し、人々は環境の良い郊外を求めて転出してゆきます。1970年代にはプタリン・ジャヤをはじめ近郊での住宅団地開発が本格化しています。これが今日につづくマレーシア社会の郊外化、モータリゼーションのきっかけになりました。

一方で都心部では、事務所ビルなどの建設ラッシュが来ました。そこで1980年代にセントラルマーケットとその周辺の地区の土地は都市開発庁(UDA:Urban Development Authority)により再開発を行うことになりました。ここで市場の建物を撤去して土地を空けることになったわけです。UDAによる再開発案は、市場の土地にクラン川の対岸に建設されたダヤブミ・ビル(*3)の拡張部として計画がすすめられました。事務所やホテルを擁する高層建物を建てる計画でした。

これに対して、文化遺産保全団体のマレーシア・ヘリテージトラスト(Badan Warisan Malaysia)(*4)らの市民グループは反対の声をあげます。また折しも1980年代半ばの経済の低迷もあり、UDAによる高層ビル化に向けた計画は見直しとなりました。マレーシアの経済成長も順調で、社会全体が文化や自然遺産に目を向けはじめる時期にさしかかっていました。

そこでセントラルマーケットの建物は壊さずに、文化的な拠点に蘇らせる検討が始まります。1985年にはUDAと民間業者との間で契約合意が成立。「文化市場」(cultural market)として再生されることになりました。構想の過程では、ロンドンのコベントガーデンの再生計画が参照されたとのことです。

セントラルマーケットの再生事業では経営企画、デザイン、開発に多くの有力者が名を連ねました。複雑な許認可の絡む大事業。行政の果たした役割も重要でした。マレーシアではこれ以前にも歴史的建造物の再生事例はありましたが、いずれも公共建築でした。民間事業としては同国で初の事例になりました。

わずか12カ月の期間に事業計画から改修工事が終わり1986年に公式に開業することとなりました。セントラルマーケットが建設されてちょうど50年目のことでした。

にぎわいはデザインできるか

老朽化した市場の建物を「修理」し「再生」する。今ふうに呼べば「リノベ」でしょうか・・・。無論、マレーシアの建築技術をもってすれば、モノとしての建物の保存と再生は、さほど難しくはありません。老朽化した市場が、再開発されて奇麗になる。火災や地震に対して強靭になることは、よいことでしょう。

ただし、問題は街のにぎわいを、蘇らせることができるかです。世界の同じような事例を見ても、建物がきれいになっても、にぎわいが戻る保証はないようです。家賃が上がり、老舗が姿を消して、フランチャイズのテナントに入れ替わってゆく。雑踏や猥雑さが失われてしまう。場合によると空きロットの並ぶ、ゴーストタウンになってしまう・・・。残念な結果の例も少なくない気がします。

にぎわいは、市井の人々の日々の生業や暮らしの中で、時間をかけて生み出されています。それは建物だけの問題ではありません。人の営みは容易には「デザイン」できないようです。

セントラルマーケットの「街角」(広角撮影)(写真:©︎宇高雄志)

建築家ウイリアム・リム:市井とともに

セントラルマーケットの改修設計を担った建築家は、ウイリアム・リム(William Lim Siew Wai)(*5)。シンガポール人建築家でマレーシアにも多くの名建築を残しました。筆者はしばらく前に、リムに会って話を聞くことができました。当時、すでに建築界の大御所でした。待ち合わせ場所に、ロマンスグレイの長髪をなびかせて現れたリムは、大きなひまわりが胸に描かれたTシャツに短パン姿でした。

その時リムは、小脇に抱えていたスケッチブックを見せてくれました。構想中のある建物のアイディアで、うねる曲線の大屋根に大きな樹木がジャングルのように描いてありました。そこに無数の人の姿が描いてありました。その時、リムは、建築家は完成した建築空間を設計するだけでは不十分だ、と力説しました。「街の人々が時間をかけて使い込むことで完成するような空間をつくりたい」のだと。

しばらくして、喧騒のチャイナタウンの露店で、茶を啜っているリムを見かけました。時折、雑踏に視線を泳がせながら、一心に手元の紙片に何かを書きつけていました。路地、屋台、大樹、道行く人々・・・・市井とともに暮らした建築家の姿がそこにありました。私にとってリムは、これまでに会ったいずれの「建築家」とも違っていました。リムの都市論も刺激的でした。香港から英国、オーストラリア、そして世界都市に変貌しつつあったシンガポールを渡り歩いたリムの都市論は『Asian New Urbanism』として刊行され話題になりました。

セントラルマーケット:街の賑わいを引き込んで

リムの回想によると、施主は、セントラルマーケットの改修にあたり「他のショッピングセンターのようなものには絶対にしたくはない」と明言していたという。リムは、一度は解体が決まり、がらんどうになった市場を前に、ここをマレーシアのパサー・マラン(夜市)のような心躍る空間に再生できないかと思ったそうです。

当時、リムは54歳。建築家として波に乗っていました。リムはこのプロジェクトの狙いを「適応型再利用」(Adaptive reuse)に定めました。すでに役目を終えた建物や土地に丁寧に手を入れ、さらに価値あるものを目指す取り組みです。しばしば新しいものを建てるよりもコスト高となり、また技術も求められます。なにより、歴史や文化に対するたしかな眼力が求められます。

1937年に生鮮市場として建てられたこの建物は、スカイブルーとオフホワイトで彩られた建物です。大きさは南北に120mに東西60mの長方形で、高さは8mあります。内部は市場らしく、大きな一室構造。「クアラルンプール最大のワンルーム」とも呼ばれていたそうです。

リムによる再生計画では、外壁は往時の市場のものが用いられることとなりました。内部に4列に13本の鉄筋コンクリートの柱が並びます。大屋根を支える梁は中央部が細くなっているハンチになっています。力学的に合理的で、細い梁は軽やかに見えます。

リムらによる改修工事では、2階部分のコンクリート・スラブ(床)が部分的に加えられました。中央を大きな吹き抜けを有するコンコースが貫き、左右に店舗群が配置されました。高窓からは光が差し込みます。このコンコースには当初、木が植えられ並木になっていました。そしてこの大きなコンコースを2階の床をつなぐ橋が渡っていました。大きく分けて、上下階ともに東半分は物販、西半分は飲食店や屋台が出店しています。

コンコースを二階から見下ろす。(写真:©︎宇高雄志)
コンコース上部の高窓(写真:©︎宇高雄志)

店舗は当初120の区画に分けられました。リムらは、様々な賃料の店舗を設けることで、多様な商いを呼び込もうとしたのです。それぞれの店舗面積は60㎡以下の面積で、最も小さいものは10㎡となりました。様々な大きさの店がまじりあって軒を連ねる街場の風景がここに実現しました。これにくわえて、コンコースをはじめとする通路には屋台も出店できるようにしました。これは短期契約でも出店が可能で、バティック体験やワークショップなどのイベントにも利用できるのです。

セントラルマーケットの魅力は、いずれの通路を歩いていても、迷路のようになっていて、飽きさせない事でしょうか。建物の東半分は、合計で6ある立方体の店舗群が配置されています。それらは10度程度の角度をつけて配置されています。一列に店を整列配置するよりも、無駄なスペースができるため効率の面では劣ります。ただ、このことで通路を含めて変化がついてみえます。そして、それぞれの立方体の店舗群には6から8軒程度の大小のテナントが入っています。それぞれの店舗スペースは業態や好みに応じて装飾されています。建物の中なのに、街角の賑わいが満ちている。人々は路地の奥に吸い込まれてゆきます。

リムらの当初の設計図面と、現在のセントラルマーケットの図面を照らし合わせると、テナントの区画や通路の位置が微妙に変わっています。より使いやすいように増改築されたものでしょう。管理がしやすいのもこの建物の特徴です。改装も増築も容易であることは建物の寿命を長くします。セントラルマーケットとして再生されて、今年で約40年。1930年の建築から間もなく100年の時を経ようとしています。新しい建物でも容赦なくスクラップ&ビルドを繰り返すこの世界。なんと幸せな建物でしょうか。

コンコースから上階への階段(写真:©︎宇高雄志)

アールデコ様式

セントラルマーケットの外観は、アールデコ様式(*6)です。アールデコは、アメリカやヨーロッパで1910年代から流行し始めました。これより前に席巻したアールヌーボー様式は、植物などの有機的形態を模したのに対して、アールデコは円や波型、流線形などを多用しています。この後に世界を席巻するモダニズムでは装飾がナンセンスだとして30年ごろにはアールデコの装飾性は姿を消してゆきました。我が国での事例として東京都庭園美術館(朝香宮邸)、聖路加国際病院(旧館)などがあり、優美な姿を誇っています。マレーシアでも映画館やホテルがアールデコ様式により建てられました。

セントラルマーケットには、正面上部に国旗の翻る掲揚柱が高く掲げられています。左右対称の立面で淡青色の壁面が伸びています。一定の間隔でリズミカルに配置された壁面装飾や窓のモチーフは、建物の外部に現れるだけではなく、内部空間にも繰り返し用いられています。青緑の色ガラスが内部空間に柔らかな光を導いています。まさしく、この市場が最初に建設された1930年代の世界の潮流に乗っていたことになります。

リムらはこのセントラルマーケットの「箱」、建物だけの再生を夢見たのではありませんでした。クラン川の河畔、市街地側の通りにも賑わいがにじみ出てゆくようになれば良いと考えていました。実際に、東側の通りは、従来は車の走る道路でしたが、現在はカスツリ・ウォーク(Kasturi Walk)として賑わっています。

各部にアールデコのデザインが施されている
(写真:©︎宇高雄志)

ウイリアム・リムの残したもの

2022年、ウイリアム・リムは、建築界のみならず、多くの人々に惜しまれつつ91歳でその生涯を終えました。最晩年まで若い建築家らをそだて、建築と街、そして市井の人々とむきあっていました。

コロナ禍が落ち着いたころ、改めてセントラルマーケットに行ってみました。コロナの余波か、すこし活気に陰りがみられました。それでもリムをはじめこの市場の復活にかけた人々が夢見たにぎわいは健在でした。リムの手掛けた建物もすでに50年を過ぎているものも少なくなく、取り壊されたものもあります。それでも、多くの建物は街の賑わいとともに生きています。

リムのシンガポールでの代表作。チャイナタウンに建つ、ピープルズ・パーク・コンプレクス(People’s Park Complex:珍珠坊)もその一つでしょう。この建物はシンガポール政府再開発庁(URA)の事業で1967年に完成した31階建ての高層複合ビル。高層部にはアパートが、低層部には無数の店舗が入り、屋台街も併設しています。頂部を緑、壁面を淡いオレンジ色で塗られ、高層棟の壁には赤文字で「珍珠坊」と大書きされています。その存在感は、シンガポールの高層ビルの中でも圧倒的です。

この建物の面白さは、しばしば観光地化したチャイナタウンよりも「チャイナタウンらしい」と愛されているにぎわいにあります。低層部の店舗街も屋台街にも、老若男女、普段着のシンガポーリアンが集っています。人々が使い込むことで、建物のもち味が引き出されています。建築家ウイリアム・リムのめざした、人々とともに生きつづける建築の姿はここにも健在でした。


写真、イラスト:宇高雄志

 (*1)  カピタン(Kapitan):英領下、支配者が対象地の人々を間接統治する目的でたてた代表者。民族毎にカピタンが任ぜられ、それぞれの民族集団での権益を握った。Yap Ah Loy(葉亜来)は三代目の中国人カピタンとして活躍し、クアラルンプールの開発や錫鉱山開発を進めた。
(*2)  リー・ユンティム(Lee Yoon Thim)[1905-1977]。建築家、政治家。クアラルンプールの多くの公共建築物を設計。独立期の公共建築を設計したことで知られ言語図書研究所(Dewan Bahasa dan Pustaka)などの設計者として記憶されている。このほか政界ともつながりを持ちマレーシア華人協会(Malaysia Chinese Association)のメンバーとしても活躍した。
(*3)Dayabumi Complex: 1984年竣工。設計:Arkitek MAA、BEP Akitekによる。アラベスク紋様のカーテンウォールをまとう白亜の高層ビル。施工会社は日系企業による。
(*4)マレーシア・ヘリテージトラスト(Badan Warisan Malaysia):クアラルンプールに1983年に設立された歴史的建造物の保存を進めるNPO。マレーシア全土で歴史的な建物の保全に取り組んでいる。主要メンバーに多くの有力者を擁している。
(*5)ウイリアム・リム(William Lim Siew Wai) [1932-2023]。建築家。香港で生まれ13歳まで同地で育つ。第二次世界大戦の終結に伴いシンガポールへ。香港大、メルボルン大、英国AAスクールで学ぶ。この間、モダニズム建築に強い影響を受けた。その後、ハーバード大で都市計画を学ぶ。1957年にシンガポールに帰国、各種の建築設計事務所などで勤務し、リム・チョンキアッ(Lim Chong Keat:ペナンのコムタを設計)らと建築設計事務所のMalayan Architects Co-Partnership (MAC) を設立した。その後、1981年に自らの事務所であるWilliam Lim Associatesで設計を行った。その間、シンガポール国立大で教鞭をとり後進の指導に当たりつつ、都市論についての研究グループを立ち上げつつ、多くの論考を残した。主な建築作品にPeople’s Park Complex(1973)、主な著作に “Asian New Urbanism” (1998):(邦訳:宇高雄志・訳『21世紀アジア都市の未来像:シンガポール人建築家の挑戦』明石書店2004)
(*6)ちなみに現況建物(1937年竣工)の設計を担ったLee Yoon Thimは「この建物は自らのスタイルに則って設計した。いかなる様式をも参照していない」と証言している。自らは設計の上でアールデコ様式を意識したものではないと述べた。(The Malay Mail, 1936.6.5)。

主な参考文献

  • William S. W. Lim, 1998, Asian New Urbanism and Other Papers, Select Books. (宇高雄志・訳『21世紀アジア都市の未来像:シンガポール人建築家の挑戦』(明石ライブラリー)明石書店2004)
  • William S. W. Lim (text), John Bruton (picture images), 1986 “Central Market, Kuala Lumpur: A Case Study for Adaptive Reuse” Mimar: Architecture in Development, 21, pp.53-60.
  • Chen Voon Fee (ed.), 2007, Encyclopedia of Malaysia V05: Architecture: The Encyclopedia of Malaysia, Archipelago Press, p.127.
  • Chee Yoong Chan (ed.), 1987, Post-Merdeka Architecture: Malaysia 1957-1987, Pertubuhan Akitek Malaysia, p.139.
  • Ken Yeang, 1992, The Architecture of Malaysia, Pepin Press, pp.336-339.
  • Ngiom, Lillian Tay (eds.), 2000, 80 Years of Architecture in Malaysia, Pertubuhan Akitek Malaysia, p.123.

宇高 雄志(うたか・ゆうし) 兵庫県立大学・環境人間学部・教授
建築学を専攻。広島大学で勤務。その間、シンガポール国立大学、マレーシア科学大学にて研究員。その後、現職。マレーシアの多様な民族の文化のおりなす建築の多彩さに魅かれています。なによりも家族のように思える人のつながりが宝です。(Web:https://sites.google.com/site/yushiutakaweb

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※ 本コラム「マレーシア名建築さんぽ」(著者:宇高雄志)は、最新版のみ期間限定掲載となります。写真、イラスト等を、権利者である著者の許可なく複製、転用、販売などの二次使用は固くお断りします。
*This column, “Malaysia’s Masterpieces of Architecture” (author: Prof. Yushi Utaka) will be posted only for a limited period of time. Secondary use of photographs, illustrations, etc., including reproduction, conversion, sale, etc., without the permission of the author, who holds the rights, is strictly prohibited.

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