マレーシアは名建築の宝箱。熱帯の気候、多民族のおりなす文化的な多彩さ、また施主と建設技術者の奮闘は、多くの魅力ある建築を生み出しました。それぞれの建物にはマレーシアの社会や歴史、日々の暮らしがよく表れています。また著しい経済成長は、新しい建築を次々に生み出しています。
ここでは、マレーシアの建築の魅力とともに、それぞれが建てられた時代や背景、その見どころに迫りたいと思います。

その12 ブルーマンション:「東洋のロックフェラー」の藍色の大邸宅
名称:チョン・ファッツィ邸・Cheong Fatt Tze邸、(現:ブルーマンション・The Blue Mansion)
用途: 邸宅(現:宿泊施設、博物館)
位置: Lebuh Leith, George Town, Pulau Pinang
竣工: 1904年完成、1990年代前半より保存修理、改修
構造: 煉瓦造、2階建て
ペナン州・ジョージタウンに藍色の大邸宅が建っています。20世紀初頭、華人の大富豪チョン・ファッツィの居宅として建てられ、いまやヘリテージ・ホテルと博物館の「ブルーマンション」として知られています。
マレーシアの町並みは色彩が豊か。その中でも、この藍色の邸宅の存在感は際だっています。強い陽の光に照らされ、藍色の壁は、真っ青な空にとけこんで見えます。藍色の壁を縁取るように、屋根には茜色の瓦がのり、妻面には様々な文物の細工が躍る。そんな装飾の調和も見事です。
邸宅の「ブルー」は、何を映し出しているのでしょうか。熱帯マレーシアの紺碧の空。もしくはマラッカ海峡からつながる大海の世界でしょうか。
「東洋のロックフェラー」 チョン・ファッツィ
チョン・ファッツィ(Cheong FattTze、張弼士)(*1)は、時に「東洋のロックフェラー」とも呼ばれペナンのみならず、アジア世界に広くその名が知れていました。
チョン・ファッツィは中国・華南地方の貧しい村に生まれました。折からの戦乱や貧困もあって多くの華僑たちにつらなり新天地を目指しました。海を渡った先はインドネシア、現在のジャカルタ。そこで丁稚として糊口をしのぎました。その後、商才を現し希代の大富豪に上り詰めてゆきます。巨万の富を築いた一方、それを活かし各地で慈善活動も展開しました。ペナンでも華人らの学ぶ学校を建て、同胞の祖国でのビジネスを助け、帰国者の身の安全を清朝に働きかけるなど貢献しました。チョンは富豪の実業家としてのみならず、外交官、政治家、慈善家、大臣と様々に称され尊敬を集めていました。篠崎香織は、オランダとイギリスの植民地政府も、また中国・清朝政府も、チョンに対しては一目置いていたとみています(*2)。チョンの逝去に際しては、オランダ東インド会社とイギリス植民地政府は半旗を掲げ、追悼の意を表したそうです。
一方、家族生活では、記録に残る限りで8人の妻を娶り、14人の子があったそうです。息子たちは全員、ペナンの名門校、聖ザビエル学院で学びました。一説によると一連の婚姻は、ある種、政略絡みであったらしい。しかし8人の妻のうち7人目の妻、タン・テイポー(陳錦宝: Tan Tay Po)に対しては違っていました。彼女へは心底惚れたのです。結婚当時、彼女は20歳で、チョンは70歳でした。この結婚の5年後、チョンは没しています。
チョンは、インドネシア・スマトラ島のメダンにも拠点を有しつつ、東南アジア各地に多くの地所と邸宅を有していました。そんな中でもペナンのこの邸宅は、彼の暮らしの場であるとともにビジネスの本拠となってきました。また邸内では、タン・テイポー夫人以外に、第三、第六夫人も暮らしていました。時に、チョンの気に召さない妻は、屋敷の両翼部分、もしくは通り向かいの別棟に追いやられる一幕もあったとか。
ペナン島ジョージタウンの華人社会
マレーシアは多民族社会。ジョージタウンの街は多くの民族の人たちの足跡で成り立っています。歴史的に、都市部には多くの中国系の人々が暮らしてきました。今でも、街中は中国系の人口比率が高いのです。
街角には、華人らの移民としての艱難辛苦と、のちの中国系マレーシア人としてのサクセスストーリーが交錯しています。ペナンには、ひろく名の知れた為政者やホテル王、教育界や二輪者製造の立役者の足跡が残っています。富豪らの成功の証として、大邸宅も点在しつつ、市井で街をささえる人々の家々が軒を連ねています。
ペナン島は1786年の英国東インド会社のカントリートレーダー、フランシス・ライト(Francis Light)による上陸から英国による統治が始まりました。その後の永年にわたる英国の支配下では、東方貿易をにらむマラッカ海峡の重要な海港都市として、また海峡植民地(Straits Settlements)の拠点となっています。重要港湾都市として、行政や金融機関が相次いで進出し繁栄していったのです。
そんな中、街にはこの土地に暮らしていたマレー人に加えて、中国・華南地方やインドの南部地方からの移民が大挙して流入してゆきます。これが後の多民族社会の萌芽となっていきました。とりわけ中国からの移民の規模は大きかった。福建、広東、潮州、客家など様々な方言語系の華僑の人たちが、港湾労働から街場の商いまで幅の広い業態を担ってゆきました。人口増加により都市は郊外に向け拡張してゆきます。
ペナン島の北東の岬には、コンウォリス要塞(Fort Cornwallis)や客船桟橋が築かれました。岬から見て南岸方面には荷揚げ桟橋や倉庫がならんでいました。その内陸側に商人が住まうショップハウスが密集して建てられました。
一方で、島の北岸には要塞に連なって、エスプラネード(Esplanade)、タウンホール、セントジョージ教会(St. George’s Anglican Church)や学校、高等裁判所、E&Oホテル(Eastern & Oriental Hotel)などが建てられました。さらにノーザム(Northam)路と名付けられた海浜通りには、英国人や富裕華人らの邸宅が軒を連ねていました。 そんな中、チョン・ファッツィ邸は、レイス(Leith)通りに建てられました。この位置は、今も昔も街の目抜き通りであるペナン(Penang)路とノーザム路の交差点に位置し、先に挙げた主要な施設群と同じ界隈にあります。そんな一等地にありながら、喧騒の目抜き通りから少し離れているからか静かな界隈です。
風水と邸宅
富豪の邸宅・・・そこには、それぞれの夢。そして世界観が映し出されています。当時の富裕華人の間では英国風、西洋風の邸宅を建てることが流行っていました。そんな中、チョン・ファッツィは、祖国である中国に伝わる「風水」のみかたに従い邸宅を建てました。一族の繁栄とともに、この邸宅が9世代にわたり末永く継承されるように願っていたのです。
建築に先立って、チョンは当代一の風水師を呼び寄せました。風水には様々な流派がある中で、この邸宅には複数の手法が採用されたようです。後年の修理の際に、邸内から大きな風水羅盤が見つかっています。風水の原理には様々な手法があるが、地味をよみとり、その力を活かすのが基軸でしょう。近年の研究でも邸内のしつらえに様々な風水の影響が読みとられています(*3)。
風水では、一般に背に山を背負うことを吉とします。邸宅はペナンヒル(標高833m)をそれに見立てたとされます。ただし邸宅は南東方角を正面に建っています。背となる北西方角にはペナン島北部方面が背面に当たるようです。厳密にはペナンヒル最高峰は背の方角ではありません。ジョージタウンの街を、扇のように囲むペナンヒルの山容全体を意識したのでしょうか。
一方で、1800年代初頭のペナン島を描いた地図には、邸宅の北東方角のほど近い土地に微高地らしい起伏が描かれています。これを背とする山に見立てたのでしょうか。逆に、正面の南東の方角には「沼」があったとされます。伝承では、その沼には蓮が咲きみだれ、屋敷は家人の間で「蓮花河」とも呼ばれていたとされます。ただし邸宅が竣工した頃の1900年代初頭の地図を見ると、周囲はすでに市街化していて沼はありません。さらに以前の1800年代初頭の地図にも同じく沼は描かれていません。邸宅のある一帯は水田が広がる微低地だったようです。
邸宅の正面には、別棟として、使用人らが暮らした一棟、5軒からなるショップハウスが建っています。別棟とはいえ、大規模で立派です。チョンがこの地所に別棟を建てたのは、本邸の完成後、別棟の建つ位置に新たに道路が作られ、丁字路の突き当たりになることを嫌ったのです。風水では、丁字路の突き当たりは「気」が悪いとされる。この見方は、現在の住宅団地などでも生きています。
敷地は台形で、おおむね平坦。レイス通りに面する道路とは高い塀で遮られ、前庭の塀には竹を模した濃緑釉の陶器が桟のように付けられています。門は両脇に据えられています。これも風水の表れでしょうか。 水の流れも風水の面で重要な観点です。邸宅の大屋根に降り注いだ雨水は、すぐに排水されることなく邸内を巡る仕掛けになっています。水は、中庭、そして床下を経て排水する仕掛けになっています。また龍の背に乗ることを連想させるかのように、奥の居室は段により床が高くなっています。また部屋の数、階段の段も、吉を意味する8の数を意識されています。

「海峡折衷様式」の建築として
邸宅は、中国の建築文化とともに西欧の要素を織り交ぜた折衷様式です。その様は、この地域に多く見られる海峡折衷様式(Straits Eclectic Style)とも呼ばれます。19世紀末から20世紀初頭にかけて成立しました。
先に見た通り、ペナンは海港都市として様々な文化が交わってきました。英領下、シンガポールとマラッカとともに、東洋と西洋をつなぐ海の要衝であるマラッカ海峡の海峡植民地として栄えたのです。
このような文化的な背景下、邸宅は様々な建築様式で彩られてきました。後にこの邸宅を蘇らせた建築家ローレンス・ローらによると、この邸宅は、西洋と東洋の折衷が魅力の源だと述べています(*4)。
それらはスコットランドから輸入された鋳鉄の手摺子、広東の材木から彫りだされた彫刻。英国製のアールヌーボーのステンドグラス、陶片を張り合わせた剪黏(ジェンネン/Jian nain)による装飾などの競演です。その上で、それぞれの要素を寄せ集めただけではなく、相互に品良く調和させ融合させているのです。
この邸宅の「ブルー」の壁。この壁の色はライム・ウォッシュ(lime wash)とも呼ばれる仕上げ技法です。邸宅の壁の色は、インド産の藍から採取された染料を、石灰と混ぜ合わせて作り出されました。青い壁は同時期、多くの建物にみられ、多くの人々に受け入れられる色でした。一方、一般的な白い壁、中国文化からみて白は哀悼を連想させるとの説もあります。このライム・ウォッシュ仕上げは、高温多湿なマレーシアにあって、調湿性に優れ、過ごしやすく家財を守りやすい面もあるそうです。
もっともこの壁の色は、ブルーをブルーと呼ぶだけでは余りある色味の奥行きがあります。風雨にさらされた淡青から、庇下の濃紺まで濃淡が入り混じり様々です。
外観を望むと、邸宅は左右対称のシンメトリー。邸宅の間口は約40m、奥行は約35mもある巨大さです。壁全面が藍色一色に塗り込められていることから、一見して1棟に見えます。しかし実際は、独立した4棟で構成されています。4棟とも屋根は、約25度(5寸勾配)の傾斜屋根で揃えられています。妻壁の棟部分は馬背山牆と呼ばれる、馬の背や鞍のように膨らんだ形態になっています。この邸宅の棟は六角形を模しています。
中央に主屋部分が鎮座しています。屋根は切妻の平入りで両翼部と比べて棟の高さがひときわ高い。棟は東西方向に延びています。その左右に両翼部が据えられています。両翼部も屋根は切妻ですが妻入りで棟は南北にのびています。この両翼部分は、主屋部分が建築されたのちに増築されたとも伝わっています。
これらの4棟の間は中庭を介して相互に廊下でつながっています。この中庭ですが、中国語で天井、英語でair wellと呼ばれています。これは単なる建物間の隙間や吹き抜けではありません。天とつながり風水でよぶ「気」をとり入れる重要な空間装置でもあります。
この邸宅ですが、その巨大さや藍色の壁の与える静謐さから、一見すると、廟にさえ見えてきます。 そのためか、こんな言い伝えさえありました・・・チョンは、一族がこの邸宅で末永く平穏に住み続けることを願っていました。そこで彼は、邸宅を、廟に似せて建てれば、買いたい人は出ないはずだと考えたのです。さらに清朝崩壊の際に、邸宅に住む男たちはそろって剃髪したそうです。その姿を見て、街の人はここに僧が住んでいるとさえ思った。さらに太平洋戦争下、マレー半島に攻め込んできた日本軍も、廟にみえるこの邸宅を壊そうとはしなかった・・・とも。

邸宅の中へ:東洋と西洋の文化の共演
邸宅は2階建て。この中に、大小38の居室があり5か所に中庭があります。平面図を見ると居室配置もシンメトリーで中央の主屋部分を中心に、東西に両翼部分が据えられています。
間口の幅は、丁度、主屋部分が三分の一で、両脇の両翼部分がそれぞれ三分の一を占めています。そして主屋部は間口方向に、さらにおよそ三分の一に細分され、ホール部分と居室が配置されています。一方、両翼部分も間口方向にさらに居室と中庭が二分の一に細分されています。全体から部分へ、また部分から全体へ規則的に分割されています。
内部は、4棟で構成されているとはいえ、お互いが上手くつながり、インテリアも調和がとれています。各室も大から小へ秩序をなして並んでいます。それでも不思議に単調さはなく、どこかの路地に迷い込んだようにさえ感じさせます。
屋根はテラコッタ(素焼き)の瓦葺き。淡い茜色の瓦で、大屋根も下屋も統一して葺かれています。軒先は緑色の釉がかる瑠璃瓦。瓦は、雨だれを添わせる草木の葉のような形の滴子瓦。表面には浅く唐草の紋が彫り込まれているのが見えます。
南面して軒の深いテラスが連なっています。加えて、主屋部分の正面玄関の上部は二階のテラスがせり出る分、さらに奥行きが深くなっています。テラスの軒を支えるのは花崗岩の太い柱です。鈍く銀彩に輝く石柱と、藍色の壁とのコントラストを引き立てています。両翼部分のテラスの床は、大判の亀甲型のテラコッタのタイルが敷き詰められています。タイルは六角形で一辺が20センチ余りもあります。
主屋部の正面玄関部分の床は、象嵌タイル(encaustic tile)を用いつつ、茶、黒、生成色のタイルで幾何学的な紋様を出しています。タイルは陶磁器生産で知られる英国・スタフォードシャーから輸入したものとされます。
柱の上部は、一本ごとに装飾の細部が異なります。それぞれに草花や人の姿の装飾が施されています。この装飾は剪黏(ジェンネン/Jian nain)と呼ばれる仕上げの技法です。張英裕らの調べによると、剪黏の技法は中国・華南地方の泉州地域で発祥し、寺廟建築の屋根の装飾として発達したとされます(*5)。剪黏は色とりどりの陶片や硝子の欠片の曲面を生かしつつ、これをモザイク状に貼り付け立体的な装飾を作り出します。これが軒先から妻面の壁、そして棟まで、藍色の壁を縁取るように施されています。
近年の修理で、剪黏に用いられた陶器が邸内に展示されています。その陶器は同じ形で、白地の下地に、淡い青や黄、緑色の釉がかかっています。これは邸宅の修理での剪黏のために焼成された陶器なのでしょう。
南側の正面の壁面には、大小の入り口が5か所に設けられています。このうち主屋部分の正面に設けられた玄関が最大の出入り口です。
玄関の中には平面が凸型のホールがあります。ここから邸内に繋がる諸室が設けられています。主屋部分の邸内の床には、ベランダ部分と同じ柄のタイルが敷き詰められています。天井は高く、天井扇風機が心地よい風を送っています。壁は生成色。テラスに反射した柔らかな光が壁を照らし出しています。主な窓は、アールヌーボーのステンドグラスが嵌められています。同じような窓が邸内に48枚もあります。このステンドグラスを通した光も室内に彩りを添えています。チョンは中国でワインを醸造した功績でも知られる。ステンドグラスにはブドウの房とともにパイナップルもモチーフとして描かれています。このほか、邸内にはルーバーの木製建具が220余りあります。後年の修理では、この窓枠の修理だけで数年を要したとのことでした。
ホールの奥側には、透かし彫りの施されたスクリーンがあります。硬木に花鳥風月、宝物などの姿を彫りこみ、それぞれに金彩が施されています。シャクヤクや蝶をあしらった装飾もあります。スクリーンの中央部分は細い櫛目状の桟がついています。このスクリーンは、透けているがゆえに、奥につらなる各室の息づかいを感じさせつつ、直接の視線はさえぎっています。その一方で、風は抜け、中庭の光がこのスクリーンを通じてホールを淡く照らし出しています。奥へは、このスクリーンの左右の入り口から入ることになります。この部分に扉はつけられておらず、邸内に招き入れられるように感じます。
このホールの他、邸内に置かれた調度品もみどころです。椅子やテーブルには螺鈿(らでん)の細工が施され、銀彩を基調にしつつ七色に輝くきらびやかさです。螺鈿は中国に端を発する伝統技法で、貝殻を薄く削りだし、家具や器の漆地の表面に嵌めこむ繊細なものです。螺鈿の椅子には、座面や背もたれの部分には大理石も嵌め込まれていて、ひんやりと冷たく感じまさせます。
この奥に、邸内で最大の中庭があります。邸内で中央に位置し、ここから各室に繋がっています。中庭は中央が一段下がり、花崗岩が敷き詰められています。外壁は藍色に塗り込められ重々しい面構えですが、邸内に5か所ある中庭はいずれも四周に半屋外空間のようにテラスを廻らせています。テラスの隅部には2階に繋がる階段が据えられています。中庭に据えられ、枝を伸ばす木々の緑の葉に、空から陽の光が射し込みます。Air wellの名の通り、ここちよい風が吹き抜けています。ここには「気」があつまると知られています。
2階のテラスは鋳鉄製の柱が並び立ち支えています。この柱や手摺子は英国・スコットランドから取り寄せられました。スコットランドのグラスゴーで創業した装飾金物製造会社マックファーレン社(MacFarlane’s & Co.)の製品です(*6)。同社の製品は英国国内のみならず、広く海外にも輸出され、海峡植民地にも多く残っています。ペナン・プラナカンマンションにも同社の銘が刻まれた柱があるのも興味を引きます。
鋳鉄柱は、直径が18センチ程度の細身でモスグリーンに塗られています。この柱が上階を支えています。柱頭部はレースのカーテンのように広がり大屋根に繋がっています。軒先部分にはこちらは木部で透かし彫りが施された格子状のスクリーンが付いています。パターンは6角と8角の格子を無数に組み合わせた満飾式と呼ばれるものでしょうか。
この奥に家族の居室となっていたダイニングホールがあります。邸内は部屋の床の高さに微妙に高低がつけられています。1階にあわせてこのホールの上階部分も床が高くしつらえられています。家族の幸運と隆盛の意味を込め「龍の背に乗る」ことをイメージしたとされています。この奥に、往時は祭壇が据えられていたのではないでしょうか。
2階にあがると、南側の正面部分に主寝室がありました。天井は板張りで1階同様に高くなっています。飾りを設けた換気口がつけられています。主寝室の南側の扉を開けるとバルコニーにつながります。軒下にも透かし彫りが施され、手摺子は邸内の中庭と同じで鋳鉄製です。植物の蔓のような紋様が施されています。
両翼部分の1階の東西角には往時は厨房がおかれていました。これをつなぐように邸宅の北側にはサービス用の廊下が設けられています。邸内の東西をつなぎ、かつ2階にも同じ位置に廊下があります。
主屋部分の両脇を固めるように、厚い煉瓦の壁が南北に向けて配置されています。一方で、北側のサービス用の廊下と厨房付近は東西に据えられています。万が一の火災の際の延焼を意識したのでしょうか。ここから屋外となる奥側には、往時は別棟で便所や厩舎が設けられていたそうです。
この主屋部分を挟み込むように、東西にそれぞれ中庭を介して両翼部分が配置されています。現在はホテルの客室として使われています。1階に10室、2階に8室あります。一部の居室は、往時はラウンジなどとして使われていたようです。それぞれに元が厨房やラウンジだった客室は、往時の室の記憶をとどめるようにインテリアがしつらえられています。
両翼部分にはそれぞれ中庭が2か所にあります。中庭を取り巻く廊下の部分の壁は淡い水色。重厚な木製の扉と窓がつけられています。床は両翼部分の外部廊下と同じく亀甲型のテラコッタタイルでした。 先にも見たように、主屋部分の床はすべてタイルが敷き詰められていました。各室の用途、またしつらえでも、中央の主屋部分が主であり、両翼部分は従であるようです。仕上げの材料でも切り分けて邸内の格式の違いを現しているようです。

再生した藍色の邸宅:ブルーマンションへ
1916年9月11日、チョン・ファッツェはインドネシアで没しました。チョンの棺を載せた船は、途中ペナンやシンガポールに寄港し、彼を慕った多くの人々が追悼したそうです。亡骸は、故国であった中国の地に葬られました。
死の直前の1912年、チョンは遺言書を残しています。そこでは、以前の宣誓を撤回するとともに、息子たちへの相続金を少額にとどめることが謳われています。その一方で、第七婦人のタン・テイポー夫人へ手厚い相続を行うことなどを示しています。また夫人との間の当時2歳の息子のチョン・カンロン(Cheong Kam Long、張錦隆)が没するまでは、邸宅を売りはらうことを禁ずる旨の遺言も残されました。
チョン没後の家産の維持は並大抵ではありませんでした。徐々にチョンが有していた、膨大な不動産は切り売りされてゆきました。早くも1940年のころには、多くの不動産が人手に渡っていったそうです。そしてこの邸宅に残されていた、チョンが第七婦人とともに愛した調度や工芸品も徐々に売り払われました。
その後、息子チョン・カンロンも1989年に没しました。彼の死により、残された家族はさらに金に困窮するようになりました。そして屋敷の部屋は徐々に他人に貸し出されてゆきました。他の息子たちも金銭トラブルなどでペナンを離れ、時には海外に移り住んでゆきます。
こうして邸宅は借家人らが出入りするにつれ荒廃してゆきました。記録によると、一時は34世帯もが身を寄せていたとのことです。筆者もその頃の邸宅の様をみていました。少なくとも1990年代の初頭、邸宅も庭も荒れていました。筆者も、窓に居住者の洗濯物が揺れていたのを覚えています。
そして屋敷の維持に手をやいた一族は、ついにこれを手放そうとします。一時は邸宅を壊したうえ、跡地にホテルなどの建設計画も出ては消えました。ペナン通りは目抜き通りで、ホテルが軒を連ねており開発用地としてはこれほどの敷地はないでしょう。
このころ、ペナンには街の歴史的建造物を愛する市民団体が活動を本格化しつつありました。ペナンには1986年に設立された歴史的遺産保全の非営利団体、ペナン・ヘリテージトラスト(Penang Heritage Trust)(*7)があります。彼らの動きも功を奏しました。そして、この邸宅の歴史と建築の魅力を知っていた地元の人々が地所の買い上げを模索します。ただし当時のペナンには歴史的な建造物を保存するための公的な仕組みはありませんでした。文化遺産保全の制度が本格的に整うのは世界文化遺産に登録される2008年前後のこととなります。
その後、ペナン出身の建築家、ローレンス・ロー(Laurence Loh)(*8)氏ら中心となりが丁寧な修理を施しています。修理では中国・福建省から職人を呼び寄せて修理が執り行われました。修理の過程そのものも技能を継承する上で大切です。残された材料を可能な限り再生しつつ傷んだ部分を修理してゆく。時間も金もかかる作業を丁寧に繰り返しました。修理期間は6年以上におよびました。一方で、近隣での大規模建築の基礎工事の振動で、邸宅が損傷する災いも被りました(*9)。
こうしてチョン・ファッツェ邸は「ブルーマンション」(The Blue Mansion)として再出発しました。いまやマレーシア屈指のヘリテージ・ホテルとして知られ、18室と有名レストランを有するホテルになっています。一部は博物館として一般有料公開されています。時にはそのインテリアを活かして映画の撮影も行われ、各種の建築賞を受賞しています。2000年にはユネスコ・バンコク事務所による優れた歴史的建物保存事例に授与される「アジア太平洋遺産賞」を受賞しています。 ペナンは2008年に世界文化遺産として登録されました。いまやブルーマンションは、アジア海域世界をひろがるチョン・ファッツェの足跡とともに、ペナンやマレーシアの歴史を物語る上で、欠かせない存在として生き続けています。
E&Oホテル(Eastern & Oriental Hotel)
1885年に開業。東半球屈指のホテルとして知られた。シンガポールのラッフルズホテルをはじめ多くのホテル経営を手掛けたサーキース兄弟(Sarkies Brothers)により開業。サマーセットモームら文豪の滞在したホテルとしても知られる。ホテルのロビーは半球状の天井を有し、その白亜の偉容はペナン島最高の宿として知られた。客室からはペナン島の北方、マラッカ海峡の眺望をおさめる。1996年より大規模改修が行われた。建設当時の建物の姿はエントランスホール周辺に見られる。
ペナン・プラナカンマンション(Pinang Peranakan Mansion, チュン・ケンキー邸)
1893年に着工。富裕華人、チュン・ケンキー(Chung Keng Quee)の邸宅として建設された。市街地の南北にのびるチャーチ(Church)通りに面して建つ。主屋を中心に北側に庭があり、南側に隣接して同祖廟を従える。ここにはチュンの像がそびえる。通りに面した主屋はシンメトリー。中央に玄関を持ち、ホール、中庭とつながる。北側の庭にも玄関を設け、上部にはテラスがつく。外壁、内壁ともにモスグリーンの色合いで統一されているが往時は白色だった。内部には往時の調度が置かれていてその姿を楽しむことが出来る。こちらもテラスや中庭に面して鋳鉄柱が並ぶ。これはブルーマンションと同じマックファーレン(MacFarlane’s & Co.)製のもの。一時はブルーマンションと同じく、複数世帯の借家人が住み、南アジアの国の領事館事務所が置かれていたこともある。丁寧な修理が施された後に「ペナン・プラナカンマンション」として開業している。
写真、イラスト:宇高雄志
(*1) チョン・ファッツィ(Cheong FattTze、張弼士)[1840-1916]:中国・広東省生まれ。貧しい客家の一族の生まれで子供のころから牛飼いとして働いた。16歳で、当時、華南地方で続いていた戦乱もあり、当時のバタビヤ(現在のジャカルタ)に移り住み店員として働いた。その後、ビジネスで頭角を現しメダンを経てペナンに事業を拡大する。主には茶や胡椒、ゴム、阿片などを商いつつ、船会社も経営した。後には中国でワインを醸造した。海峡植民地の華人の保護でも積極的に貢献。後には華人商業会議所の設立に尽力した。清朝政府による海外商務視察官などにも任命されていた。ジョージタウンの中華系学校の設立、中国寺院の建立などの立役者として、またジョージタウンの街中の通りの名前にも彼の名が刻まれている。公式には8人の妻があり、7人目の妻を特に愛した。14人の子がいたとされる。東南アジアに多くの邸宅を有していたが、ペナンのこの邸宅が彼の拠点となっていた。1916年にインドネシアで没。中国にて葬られた。
(*2) 篠崎香織、2017「プラナカンの誕生:海峡植民地ペナンの華人と政治参加」九州大学出版会、p.270.
(*3) Teh Boon Soon and Azizi Bahauddin, 2017, Identifying Feng Shui’s Form School Influence in the Internal Layout of Peranakan Architecture, International Transaction Journal of Engineering, Management & Applied Sciences & Technologies, pp. 301-316.
(*4) Loh-Lim, L. L. (2012) The Blue Mansion: The Story of Mandarin Splendour Reborn. Penang: L’Plan Sdn Bhd.
(*5) 張英裕、宮崎清、2001「寺廟装飾「剪黏(ジェンネン)」に関する起源‧変遷及び制作過程:台湾及び中国大陸南方における現地調査を通して」デザイン学研究 48-4, pp.63-72.
(*6) マックファーレン(MacFarlane’s & Co.):同社は1850年の創業地の地名から「サラセン鋳造所」としても知られる。名勝地や宮殿などの噴水や街灯など多くを製造し海外にも多くの製品を輸出した。ペナンではターフクラブの噴水、またシンガポールのラッフルズホテルのベランダにも用いられた。
(*7) ペナン・ヘリテージトラスト(Penang Heritage Trust):市民団体。ペナンの歴史的建造物の保全を後押ししてきた。マレーシア国内のみならずアジア諸国の歴史的町並み保全の団体との交流も進めている。ペナンには東南アジア地域での消費者運動の先駆けとされるペナン消費者協会(Consumers’ Association of Penang)があり1969年の設立以降、広く市民活動の基盤となってきた。
(*8) ローレンス・ロー(Laurence Loh)。英国AAスクール(Architectural Association School of Architecture)で建築を学ぶ。卒業後、ペナンに戻り、建築家としての活躍。チョン・ファッツェ邸のみならず多くの歴史的建造物の修理と再生に尽力している。Arkitek LLA Sdn. Bhdを主宰している。
(*9) 結果として開発業者に対する訴訟となり、ブルーマンション側の勝訴となった。この裁定はブルーマンションの事例のみならず、これ以降、歴史的建造物の隣接地や世界遺産の範囲内では、振動の生じる杭打ち基礎工事は禁止されることになった。
主な参考文献
- Chen Voon Fee (ed.), 2007, Encyclopedia of Malaysia V05: Architecture: The Encyclopedia of Malaysia, Archipelago Press.
- Loh-Lim, L. L. (2012) The Blue Mansion: The Story of Mandarin Splendour Reborn. Penang: L’Plan Sdn Bhd.
- Teh Boon Soon and Azizi Bahauddin, 2017, Identifying Feng Shui’s Form School Influence in the Internal Layout of Peranakan Architecture, International Transaction Journal of Engineering, Management & Applied Sciences & Technologies, pp. 301.-316.
- 篠崎香織、2017「プラナカンの誕生:海峡植民地ペナンの華人と政治参加」九州大学出版会
- 張英裕、宮崎清、2001「寺廟装飾「剪黏(ジェンネン)」に関する起源‧変遷及び制作過程:台湾及び中国⼤陸南⽅における現地調査を通して」デザイン学研究 48-4, pp.63-72.

宇高 雄志(うたか・ゆうし) 兵庫県立大学・環境人間学部・教授
建築学を専攻。広島大学で勤務。その間、シンガポール国立大学、マレーシア科学大学にて研究員。その後、現職。マレーシアの多様な民族の文化のおりなす建築の多彩さに魅かれています。なによりも家族のように思える人のつながりが宝です。(Web:https://sites.google.com/site/yushiutakaweb)
建物によっては一般公開されていない部分もあります。ご訪問の際には事前に訪問先の各種情報をご確認ください。
※ 本コラム「マレーシア名建築さんぽ」(著者:宇高雄志)は、最新版のみ期間限定掲載となります。写真、イラスト等を、権利者である著者の許可なく複製、転用、販売などの二次使用は固くお断りします。
*This column, “Malaysia’s Masterpieces of Architecture” (author: Prof. Yushi Utaka) will be posted only for a limited period of time. Secondary use of photographs, illustrations, etc., including reproduction, conversion, sale, etc., without the permission of the author, who holds the rights, is strictly prohibited.
