マレーシアは名建築の宝箱。熱帯の気候、多民族のおりなす文化的な多彩さ、また施主と建設技術者の奮闘は、多くの魅力ある建築を生み出しました。それぞれの建物にはマレーシアの社会や歴史、日々の暮らしがよく表れています。また著しい経済成長は、新しい建築を次々に生み出しています。
ここでは、マレーシアの建築の魅力とともに、それぞれが建てられた時代や背景、その見どころに迫りたいと思います。

その3 コムタ(KOMTAR):街になった巨大建築
名称:コムタ (KOMTAR: Kompleks Tun Abdul Razak)
設計:リム・チョンキアッ(Lim Chong Keat)(Architects Team 3)
事業主体:ペナン開発公社(Penang Development Corporation)
位置:George Town, Penang
施工期間:着工1974年1月、竣工1986年1月、大規模改修2015年
建築面積:約7.1万㎡、敷地面積:約11万㎡
高さ:約250m、68階建て(完成時:65階建て)
構造:鉄筋コンクリート造、一部・鉄骨造。
KOMTAR:ペナンの空を衝く巨大建築
ペナンに住むことは、コムタを見上げて暮らすと言うことでしょうか。70階建てに迫る超高層建物は驚くほど遠くから見えます。背が高い分、その影も長い。炎天下、街中を歩いていて、急に雲が出たと思ったら、コムタの長い影だった経験は何度あったでしょうか。
コムタ。KOMTAR(Kompleks Tun Abdul Razak)。その名は、初代首相からとられました。多民族社会マレーシアらしく、コムタにはマレー語に加え、中国語、タミール語など様々な表記がなされています。中国語では「光大大厦」と表記されます。個人的には、この「光大」がなぜかしっくりきます。語感から「光」のオーラをまとった「巨大」な楼閣が天を突くさまを連想してしまいます。実際にコムタは、昼も夜も、今日も明日もペナンの空に屹立し、そして輝いています。
世界には「コンプレクス」、複合施設を名乗る建築物が多くあります。しかし、コムタほどの巨大さに類例はそれほどない気がします。その巨体に、州や市をはじめとする行政機関、ショッピングセンター、ホテル、バスターミナル、そして数えきれない数の個店を吞み込んでいます。もはやコムタの出入り口はいくつあるのか、また建物の正面玄関がどれなのか、誰も答えることはできないのではないでしょうか。
そして、コムタの周辺には、ショッピングセンターやホテルなど、コムタの子分となる施設が年々増殖しています。またペナンのバス路線はほぼすべてがコムタ経由。景観的にも機能的にも、コムタは、ひとつの建築の枠を超えた「街」としてみた方がよさそうです。
ペナンの危機とコムタ: リム兄弟の奮闘
コムタ誕生は、ペナンにとってある種、必然の産物でした。建設に至る時期、ペナンの先行きには暗雲が立ちこめていました。英領時代から、ペナンは屈指の港湾都市として栄え、独立以降、地方自治でも先進地でした。
ところが、時の政治の作用もあり1969年にペナンの自由貿易港が撤回され、州の経済は大打撃を受けました。追い打ちをかけるように76年には「市」が、自治権限が弱い「ミュニシパリティー」に事実上の格下げを受けたのも痛手でした(*1)。
これに対してペナンの政財界は相次いで策を打ちました。州政府の傘下に「ペナン開発公社(PDC)」が設置され、その目玉として、国際空港に近い島南部にバヤンレパス自由貿易地区を設置。この自由貿易地区は国内第一号の事例となり、ここに多くの日系企業も進出しました。85年には、ペナンブリッジの完成により本土と島はつながりました。
英領植民地時代から築かれた都心にも再開発計画がたてられました。当時のジョージタウンは今よりもさらに多くのショップハウスが立ち並んでいました。再開発計画では、古い市街地の大半はそのままに、一部の地区に近代的な開発を集中し、そこに新しい都市機能を集約することが謳われました。もっとも市街地は不動産の権利関係が複雑で、まとまった大きさの土地を得ることが難しかったこともありました(*2)。
ただ世界の都市の歴史を振り返れば、事情がなんであれ、古いものを引き倒し、新しいビルを建てたのが、20世紀の世界の都市の記憶ではなかったでしょうか。
しかしペナンの都心再開発計画にかかわった人たちは、先見の明があったと言えるでしょう。残された市街地は、その歴史性が高く評価され世界文化遺産(2008年登録)となり世界中から観光客が押し寄せています。そして、開発を集約した新しい都市の要が、コムタ(1986年完成)でした。
元来、コムタの建つ土地は、市街周縁の低地でした。海とつながるペランギン川が入り込み、英領時代には運河となり荷をつんだ舟が上がって周りも市がたつなど賑やかでした。その一方で、比較的に大きな区画の土地も散在していました(*3)。また、この地区には郊外に延びる主要な道路が集まっていた。敷地条件としては、巨大コムタを建てるのにうってつけでした。もっともこれにより失われた「歴史的」市街地もあったのですが。
この開発を導いたのが、ペナン生まれのリム・チョンユー(Lim Chong Eu)(*4)と、リム・チョンキアッ(Lim Chong Keat)(*5)の兄弟でした。兄のチョンユーは政治家で、ペナン州知事を務めました。類い希な政治手腕でペナンの開発政策を主導し「近代ペナンの建設者」として記憶されています。
そして弟のチョンキアッ氏は、建築家となり、マレーシアやシンガポール各地に名建築を設計しました。そのひとつがコムタでした。チョンキアッ氏は建築家であるとともに、植物の専門家としても知られていました。


コムタ:建築をこえた建築
コムタ建設計画は1974年に始められ、5期に分かれていました。建設途上では現場の火災に遭ったり、隣接地の地盤がきわめて軟弱だったり、前途多難でしたが12年後に完成しました。
コンクリート製の巨大建築となれば、内部は迷路のようになるか、整然としすぎて無味乾燥な工場のような空間を想像しがちですが、コムタはそうではありません。
コムタには一見して「正面」がありません。ただしペナン島内の方々から集まる道路のそれぞれに向けて、巧みに玄関口が配されており、人々を内部に導きます。内部は樹木のように通路が系統づけられています。多くの人の流れをさばく、太い幹に相当するコンコースが建物の東西を貫いています。そこから枝のように廊下がのび、さらに小枝のような細かな路地が配されています。それも退屈な直線的な通路を歩かされるのではなく、「街路」は樹木の枝のように規則性をもちつつ屈曲し、相互につながっています。そしてコンコースには大型の店舗が、細い路地には街場の屋台のような小飲食店が佇んでいて、ごはんを食べることができます。まるで本物の「街」のようです。
コムタを訪れる人は、迷いすぎず、退屈することがない。近年、世界中で増殖する、効率一点張りのショッピングセンターの、なんともいえない気怠さが、さほどコムタには感じないのはこの巧みな「街路」の配置によるからでしょうか。
そしてコムタの内部空間が本物の「街」のように見えるのは、このコンコースから路地に至る通路が30度の倍数で交差して各所に「街角」があるからかもしれません。コムタの周辺はペナンロード他、3本の主要街路に囲まれています。この3本の角度を、建物の内部に引き込みつつ構成しています。この30度で交差する梁や壁をささえるのが、すべて丸柱です。四角い柱よりは、より有機的な印象です。
ペナンに花開いたモダニズム建築の夢
もう一点、コムタが画期的だったのは、完全に歩車分離を実現したことでしょう。コムタは敷地の中央を十字に切り取る道路が引き込まれています。この地上レベルにバスターミナルが設けられ、搬入車両、タクシーや自家用車が引き込まれています。
一方、歩行者は上階の「レベル3」に設けられたコンコースを使えば、車に急き立てられることなくコムタの中を往来できます。そして、地上からコンコースのある上階へは大きな吹き抜けがつなぎます。リムが強い影響を受けたモダニズム建築で謳われた方法がここに結実しています。
高さ方向の設計も巧みです。コムタの階高(各階の高さ)は高層階を含めて単一で、コストや施工の観点では合理的でした。
コムタの高層棟のデザインはおなじみの円筒型です。壁面は、縦に白い丸柱、横に梁、床から天井までをガラス窓がリズミカルに組み合わさり構成されています。高層棟は円形の平面で、中心にエレベータや避難階段、トイレなどの設備部が配置されているのは高層建物の定石どおりです。この周りをドーナツ様の廊下がとりまき、その外側にオフィスなどがあります。中心から30度の角度で配置された柱12本が外周と中央部に2列並びます。ここでも低層部分と同じ30度がデザインの鍵になっています。


チョンキアッ氏は、稀代の発明家で建築家のバックミンスター・フラー(Richard Buckminster Fuller)と親交がありました。コムタの屋上には、このフラー発明のジオデシック・ドーム(geodesic dome)が置かれました。このドームは、コムタの周りの街路からは見えにくいのですが、高層棟やホテルからはよく見えます。長年にわたりドームは、コムタ内のオーディトリウムとして利用されていました。コンクリートの内部空間から、この軽やかなドームに入ると開放された気持ちになり、なぜか地球を連想しました。
最近になってコムタの背がのびました。建物の背が伸びるのは世界的に見ても希でしょう。完成時は65階建て(232m)でしたが、2015年に最上階に3階分が増築され68階建て(249m)になったのです。

都市の郊外化とコムタ
コムタの完成は1986年でした。完成後、コムタは、ペナン島内のみならず、マレー半島北部の各州へも圧倒的な集客力を誇っていたのではないでしょうか。少なくとも2000年初頭までは。
リーマンショックの2008年前後でしょうか。客足が落ち始めます。マレーシア社会は年々、都市の郊外化が続いています。それに応じて、巨大ショッピングセンターは郊外に建設されています。コムタの建物内には空き店舗がめだつようになりました。開業当初から営業してきた大型小売店舗のスーパー・コムタも、日系のヤオハンも閉じることになりました。ヤオハンの日本語の古本コーナーは貴重でした。後継のテナントも二転三転しましたが、どうも振るわないようです。これはコムタの隣接地に2000年以降、相次いで開業したショッピングセンターでも同じようです。
一説にはコムタの半数に迫る数の店舗が空か開店休業状態だとの指摘もあります。実際に、出店から閉店までのサイクルが驚くほど早く、そうかと思うと、一見して休眠常態に見えてもつぶれない店もあります。どうもコムタができた当時からの各ロットの契約や複雑な権利関係、すくなからずポリティクスも作用しているとささやかれています。なぜかコムタには、建物全体を代表するウェブサイトがありません。
様々な改善策が模索されていますが、どうも建物の有様そのものも影響している気がします。コムタの目玉だった歩車分離、すなわち地上レベルは車両、上階は歩行者に分けることは正論です。しかし多くの市民が利用するバスターミナルを含め、周辺地区からコムタにたどり着くには、結局、地上レベルを歩く必要があります。そこにはコムタの巨体が覆い被さっていて、薄暗く、むっとした熱気が待ち受けます。排ガスと汚水のニオイの漂う、薄暗いバス停や歩道は、快適といえるでしょうか。
コムタに都市機能を集中し過ぎたが故か、周辺の交通渋滞も年々深刻になり駐車場探しも一苦労です。運良く駐車できたとしても、中の駐車場は薄暗いです。たとえコムタへの訪問体験がよくても、その行き帰りが自家用車であれバスであれ、この様では、たとえば「家族で、お買い物と夕食に、コムタにお出かけ」とはならないのではないでしょうか。ペナンにはコムタ以外にも新鋭のショッピングセンターが多くあります。
高層階は、主に州政府などの行政機関が入っています。執務空間は眺望抜群の最高の職場ではないかと思います。しかし朝夕の太陽高度が低い時間帯には、強烈な日射が室内に差し込みます。変形平面の室内は思いのほか使いにくいとのこと。一般的に家具は四角い。四角でない部屋の中には無駄なスペースがでます。そして決定打はエレベータ渋滞でしょう。これは日本の「タワマン」をはじめ、高層ビルが抱える宿命でもあります。
そこでコムタは州政府などが主体となり、老朽化した部分からリノベーションをはじめています。しかし、これも抜本的な解決には結びついていないようです。コムタを「失敗した近代建築」と指さす論者も出始めました。当初は住宅棟が3棟計画されていた。もしもこれが実現されていればコムタに「住む」人がいたことになり、コムタの今の姿も違ったものになった気がします。
最近、コムタにはマレーシアで働くバングラディシュ、ミャンマー、フィリピンからの人たちの姿や、外国人テナントも目立つようになりました。


生き続ける街。コムタ
2010年前後から策定が本格化した「ペナン総合交通計画」(Penang Transportation Plan)では、モノレールなどの新交通路線の計画がすすめられてきました。計画の目玉は、島南部のペナン国際空港(バヤンレパス空港)と都心を結ぶ新交通路線の整備。ペナンもいよいよ車社会から転換する時期に来たのです。
ただ、いまやコムタは往時の「光」を失いつつあります。この交通計画の策定を聞いたとき、都心のターミナルとして、コムタは選ばれないだろうと思いました。ターミナルは、島北部の海岸のガーニードライブの沖合にできる、巨大埋め立て地になると考えたからです。
ところが州が発表した資料によると、ここでもコムタは都心側のターミナルとして位置づけられていました。計画のポンチ絵には、コムタの巨体の足元を這うように、モノレールやトラムの線路や停留所が描かれていました。
写真、イラスト:宇高雄志
(*1) 1976年に「ペナン島ミュニシパル」となる。国内の他都市が次々と「市」格となる中、ペナンは2015年になって再び「市」となった。
(*2) マレーシアでは「家賃統制令」が2000年まで施行され、多くのショップハウスをはじめとする都市部の建物が市場価格と比較とすると圧倒的に低廉な戦前の家賃水準に据え置かれることになった。これにより建物の建て替えが進まず、古い建物が残存する要因の一つとなった。
(*3)この地区は第二次世界大戦下、日本軍による空襲爆撃を受けた。
(*4)リム・チョンユー(Lim Chong Eu)[1919-2010]。政治家。ペナン生まれ。エジンバラ大学で薬学を修める。独立前後から政治家としてのキャリアを積み、1968年に政党のゲラカン(Gerakan)を立ち上げ、1969年から20年余りペナン州知事を務めた。ペナンの経済的低迷に対応した開発政策を展開した。ペナン州では、コムタを含む都市再開発、島南部の自由貿易地区設立や、本土架橋ペナンブリッジ建設などに貢献。「近代ペナンの建設者」と記憶され、島内の高速道路にも彼の名が冠されている。リム兄弟の長兄。
(*5)リム・チョンキアッ(Lim Chong Keat)[1930-]。建築家、都市計画家。ペナン生まれ。リム家の8人兄弟の末っ子だった。ペナン・フリースクールで学び、マンチェスター大とマサチューセッツ工科大で建築学を修めた。後に建築設計会社Architects Team 3を立ち上げる。マレーシア、シンガポールで多くの建築物を設計した。代表的な建築設計作としてコムタ他、ヌグリスンビラン州立モスク(1967年)、シンガポール・ジュロンタウンホール(1974年)などがある。建築界の要職を務めつつ、大学などでの後進の指導、また熱帯植物の保全活動にも深くかかわっている。
(*6)モダニズム建築:1900年代に入り鉄、ガラス、コンクリートなどの新しい材料を用い、合理性を追求した建物の建て方。建物に装飾を設けず、よりシンプルな形態が志向され、地域性にこだわることなく世界に普及することを目指された。ピロティーはモダニズムの大家であるコルビジェ (Le Corbusier) [1887-1965]の近代建築五原則の中に謳われている。
(*7)バックミンスター・フラー(Richard Buckminster Fuller)[1895-1983] 、米国・マサチューセッツ生まれ。ハーバード大学などで学び海軍入隊。建築家、発明家などとして知られた。フラーは最小限で最大の効果を生む技術を生み出し、車や住宅、フラードームを含む建築構法を発明した。「宇宙船地球号」の概念を提示。自然環境の大切さを説いた。大量消費、環境破壊に危惧を覚えたヒッピーから共感を集めた。
(*8)例えば、以下の論考。Soon-Tzu Speechley, “Komtar: Malaysia’s Monument to Failed Modernism”, Failed Architecture website: https://failedarchitecture.com/komtar-malaysias-monument-to-failed-modernism/, 6.6.2016, retrieved: 22.11.2022.
主な参考文献
- Ken Yeang, 1992, The Architecture of Malaysia, Pepin Press
- Chen Voon Fee (ed.), 2007, Encyclopedia of Malaysia V05: Architecture: The Encyclopedia of Malaysia, Archipelago Press.
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宇高 雄志(うたか・ゆうし) 兵庫県立大学・環境人間学部・教授
建築学を専攻。広島大学で勤務。その間、シンガポール国立大学、マレーシア科学大学にて研究員。その後、現職。マレーシアの多様な民族の文化のおりなす建築の多彩さに魅かれています。なによりも家族のように思える人のつながりが宝です。(ウェブサイト:https://sites.google.com/site/yushiutakaweb/nyusu)
追記:コムタ最上階に新設された「レインボースカイウォーク」に行ってみました。床がガラス張りの歩廊の眼下に250m下の地上が見えます。高所恐怖症なので腰が抜けました。ロープ伝いにコムタの外壁を歩くコースは断念しました。
※ 本コラム「マレーシア名建築さんぽ」(著者:宇高雄志)は、最新版のみ期間限定掲載となります。写真、イラスト等を、権利者である著者の許可なく複製、転用、販売などの二次使用は固くお断りします。
*This column, “Malaysia’s Masterpieces of Architecture” (author: Prof. Yushi Utaka) will be posted only for a limited period of time. Secondary use of photographs, illustrations, etc., including reproduction, conversion, sale, etc., without the permission of the author, who holds the rights, is strictly prohibited.