建築

マレーシア名建築さんぽ #7 ケリー城:ウィリアムの夢、未完の城

マレーシアは名建築の宝箱。熱帯の気候、多民族のおりなす文化的な多彩さ、また施主と建設技術者の奮闘は、多くの魅力ある建築を生み出しました。それぞれの建物にはマレーシアの社会や歴史、日々の暮らしがよく表れています。また著しい経済成長は、新しい建築を次々に生み出しています。 

ここでは、マレーシアの建築の魅力とともに、それぞれが建てられた時代や背景、その見どころに迫りたいと思います。

丘の上にそびえるケリー城(イラスト:©︎宇高雄志)

その7 ケリー城:ウィリアムの夢、未完の城

名称:ケリー城 (Kellie’s Castle)
用途:居宅
設計:不詳。施主による
位置:Jalan Gopeng, 31000 Batu Gajah, Perak
竣工:1915年(一部)
面積:3階建て(塔屋あり)、地下部あり
構造:煉瓦造


丘の上の城

マレー半島西海岸。ペラ州の州都イポーの街から、車で30分余り。途中、落花生で有名な街を通り抜けた先にケリー城(Kellie’s Castle)はみえてきます。周囲は見渡す限りの油ヤシのプランテーション。小さな川のほとりから立ち上がる小高い丘の上に屹立しています。

城の外観は、ゴツゴツした赤茶けた煉瓦の壁に、骨太の柱がたっています。壁には様々な形のアーチ。頂部にはマレーシアの国旗がはためいています。

なぜ、ここにこの城は建てられたのでしょうか。この城に住んだ人々は、どんな暮らしをしていたのでしょう。この城は、当初、単に「ハウス」と呼ばれていたそうですが、後に「ケリー城」と呼ばれるようになったそうです。不思議で奇妙な噂をともなって。

城の主、ウィリアム・ケリー・スミス

英領下のマレー半島。多くの英国人の若者が、一獲千金を狙って奥地に分け入りました。彼らが狙ったのは錫やゴムの他、天然資源でした。皆ではないにせよ、幸運な一握りは、成功を手中に収めることができました。この城の元の主、ウィリアム・ケリー・スミス(William Kellie Smith)もその一人でしょう。

ウィリアムは1870年、スコットランドの小さな村のケラス(Kellas)の農家の一家に生まれました。ケリーはウィリアムの母の旧姓で、彼自身は後にミドルネームにこの旧姓を名乗ることにしています。ウィリアムは1890年に、土木技師としてマラヤにわたりました。そしてマラヤのニュージーランド資本の測量会社で仕事を始めます。

ジャングルに覆われたマラヤ半島。城のあるバツ・ガジャ(Batu Gajah)地区は錫鉱山開発が行われたこともあり、マレー連合州でも最も裕福な地域でもありました。拓くべき土地は彼方に広がり、狙った土地をもつ顧客から、次々に測量の依頼がありました。測量会社は土地開発にも乗り出しています。会社は州政府より9000ヘクタールもの森林を譲り受け、莫大な利益を上げることができました。

ウィリアムも後に自らの会社を立ち上げています。400ヘクタールの土地を得ることができ、ゴムプランテーションと錫鉱山開発を始めています。農園は「キンタ・ケラス」と名付け、また錫鉱山はキンタ・ケラス錫鉱山と命名しています。

彼のマラヤでのビジネスは、当初、首尾よくはこびました。そして最愛の妻アグネスと1903年に結婚。新婦とマラヤでの暮らしを始めます。その1年後には娘のヘレンが誕生しています。アグネスはリバプールの綿花生産を行う富裕な家族を系譜としていました。彼女は1906年には30万海峡ドルもの相続を得ることとなりました。ウィリアムも1904年にシンガポールの会社から2万4千ドルの借り入れを行い、これを社業の原資としました。

ウィリアムは城をアグネスに捧げ、当初は「アグネス・パレス」とも呼ばれていました。彼女の受けた相続財産と、ウィリアムの財産の半分を、アグネスの名義に移しています。これによりアグネスが1500エーカーに及ぶエステート(農園)の名義人ともなりました。

ただ英国から渡ってきた彼らにとって、熱帯の暑いマラヤでの暮らしは想像以上に過酷でした。特にアグネスにとってはとても辛いもので、彼女は高原避暑地のマックスウェル・ヒルに頻繁に休暇に向かっています。このこともあり若い夫婦にとって最も急がれたのが、少しでも涼しく、安心して暮らすことのできる住まいを設ける事でした。娘のヘレンが生まれてから、ケリー城の建設が始まりました。

丘の上に建つ城から北方を眺望する(広角レンズ使用)(写真:©︎宇高雄志)

ケリー城の威容

ウィリアム一家の住まいは、大きく分けて3棟もありました。その規模は、到底、家族だけの住まいとは思えないほど巨大なものでした。ウィリアムは普請道楽だったのではないでしょうか。

敷地には当初、こじんまりしたバンガローが建っていました。このバンガローは、現在は残っていません。次いで増築部として煉瓦造の邸宅が1909年に建てられています。この部分は、現在は壁面だけが残る廃墟となっています。そして3期目の工事となったのが、現在、ケリー城として知られる建物で、1915年に部分的に完成しています。

城の豪華な接客空間は、ウィリアムにとって、彼の取り巻きをつなぎ止め、富裕層にとりいるために必要な空間でもありました。ウィリアムは、マラヤでの植民地政府や政財界のお歴々、ビジネス界と一歩でも懇意になろうとし、信用の獲得に苦心したそうです。ビジネス敵はウィリアムの仕事の能力にしばしば難癖をつけ、巨額のアグネスの相続財産を疑わしいと喧伝したからです。このあたりの事情からも、城は、彼が自らの力を、社交界に見せつける舞台でもありました。

城への訪問者は、前面に流れるラヤ川に架かる小橋をわたり、城の屹立する丘をみあげます。丘の頂に両翼を開くように建つ城を見上げつつ登ることになります。城は、一層大きく、そしてそびえて見えたでしょう。

城は前面からみて何とも不思議な形をしています。一見して、左右対称のシンメトリーのようにも見えますが、翼の左手には四角い搭が、右手には八角形の2階建てが見えます。壁面は2階の中央部のみが白い漆喰で塗り込められていて、そのほかの部分はレンガの素地そのものを出した現しになっています。

壁面には、その全面に暑さをやわらげる目的で小さな穴、換気口が設けられました。これらは、せいぜい100㎜角程度の大きさですが、多くは、壁の外側のほうが小さく漏斗状になっています。一見すると銃眼に見えなくもない不思議な形をしています。ただし、この穴から建物の中から外の様子を窺うこともできれば、逆に、外から中をのぞくこともできます。はたして覗き穴だらけの屋敷で、家族は落ち着いて眠れたのでしょうか。

壁の煉瓦はいわゆる英国積みでした。煉瓦一個のサイズは200×60×100㎜程度で、荒々しいごつごつした表面でした。この煉瓦は、仕上材として見た目を意識して焼成されたものではなく、ゆくゆくは上から漆喰などで仕上げられる下地材として製造されたものではないでしょうか。建設当時、マラヤにはセメントは普及していませんでした。そこで城の建設では、煉瓦を積み上げるのに、アヒルの卵と砂を混ぜたものを用いて目地として用いたそうです。

屋根は、熱帯で降雨の多い気候であるにもかかわらず、平らな陸屋根です。完成後、雨漏りに悩まされたのではないかと思います。水平感の強調されたこの屋根は、この建物をますます城に見せているのかもしれません。軒周りには軒支えが取り付けられ、深い軒を支えています。窓はラジャ・スタイルのそれで、玉葱型から馬蹄型まで様々な窓が付き、その両側に骨太の柱がとりついています。

城の壁面。アーチの細部
壁の「通気口」
城、南立面。中庭側の形状。馬蹄型のアーチがリズムよく並ぶ(写真:©︎宇高雄志)

城の暮らし

何ともいかめしいこの城で、ケリー一家はどんなふうに暮らしていたのでしょうか。残された城に一家が、何を夢みて暮らしていたのか読み取れないでしょうか。

城は3階建て、地下1層です。1階には主に接客のための居室があり、2階には家族が起居する寝室群が、3階には客室があります。いずれも大ぶりの居室からは、北側にひらけた眺めの良いバルコニーがついています。ここから、丘の下を流れるラヤ川が見え、広がるプランテーションを遠望することができます。反対側となる南側の中庭側に廊下が取り巻いています。

1階の各室には、ホールとリビング、書斎、食堂があります。それぞれの居室は相互につながっていません。いったん廊下にでる必要があり、それぞれの部屋が独立していました。また熱帯のマレーシアの気候を鑑みると、部屋には窓や換気口が少ないようですが、点々とあけられた細い通気口でそれを補おうとしたのでしょうか。

2階には、家族の寝室と客室があります。階段室に近い位置に客室とリネン室が配されています。その奥に、主寝室と、息子と娘のそれぞれの寝室が並んでいます。それぞれの居室には北側に向けてバルコニーがあり、また浴室もついています。現存する城はすでに装飾や家具が残らないため、ほぼ無彩色の部屋が並んでいます。ただ、娘の寝室にのみ壁の最上部と梁の周りに青地に草花をあしらった帯飾りがめぐらされていて、この巨大な城に残された唯一の色彩です。地下1階には300本のワインを収蔵した、ワインセラーがあったそうです。

邸内のインテリア写真が残されています。大小の絵画が壁一面に貼られ、多くの壺などが置かれています。写真の解像度に限りがあるため細部が読み取れないのですが、螺鈿(*1)で装飾された家具も置かれています。全体として東洋趣味のインテリアです。写真に写る内壁は仕上げが施されています。モノクロで色彩は読み取れませんが、アーチ部分は白色で、壁面は淡い色彩が付いていたようです。ただしこれらの写真は撮影場所が不明で、もしかすると、現存していないバンガローで撮影されたのかもしれません。

建物には、不思議な空洞が残っています。北側の正面から見て、左手の角塔の部分です。この空洞は、エレベータのシャフトとなるべきところで、ここにマラヤで初めてとなるエレベータが設けられる予定でした。これにより最上階までゲストを案内するはずで、そこからは広がる農園を見渡すことができたはずです。しかしエレベータは完成することなく、現在も狭い階段だけが上階をつないでいます。ウィリアムは英国でエレベータの機材を仕入れて、マラヤに持ち帰るはずでしたが、旅の途上のポルトガルで亡くなっています。

ところで現存している城には、使用人の住まう居室やキッチンなどのサービス側の機能がありません。せいぜい2階にリネン室と地下にワインセラーが配置されているのみです。サービス側の各室は別棟にあり、城は家族の居室とともに、客をもてなす接客空間として用いられたようです。

城の暮らし

城には「秘密」の階段が複数ついています。2階のすべての寝室には、それぞれの寝室には浴室が設けられていますが、この片隅に避難階段が設けられています。幅は70cm程度で狭く、壁はレンガの素地のままでした。この先に下階を通じて建物の外へ脱出できるようになっています。建物の西角のらせん階段は、迷路のように折れ曲がりつつ、薄暗い地下室につながっています。地下室は非常時に家族が避難する場として機能したそうです。

使用人の間でも、ウィリアムは万が一の脱出や避難を、重視していたとささやかれていました。2003年に行われた近隣の道路工事で、高さ1.5m、幅1.0mのトンネルが見つかっています。ウィリアムは4種類の避難経路を設けたとされていますが、これはそのうちの一本だと言われています。これを含み3本の避難トンネルはすでに見つかっていますが、最後の4本目は、現在も見つかっていません。そのトンネルには黒い車がとめられていたとのうわさも残ります。ただし城の北側の丘の下にはラヤ川が流れています。城からは相当の高低差があります。城からどのようにトンネルは掘られたのでしょうか。

ウィリアムと一家は、何を恐れて、入念に脱出路を設けたのでしょうか。

ケリー城の最上階からは茫漠と広がるアブラヤシのプランテーションが見えます。濃い緑のアブラヤシが、果てしなく、どこまでもつづいています。「見渡す土地は俺の者」となると鼻高々だったでしょう。一方で、城は、この茫漠と広がる緑の大海原をさまよう、漂流船のように思えてきます。そしてアブラヤシの木立の隙間からは、誰かが潜んでいてこちらを見張っているような・・・。ウィリアムは熱帯の厳しい気候の下、政敵やビジネスの競合相手と競り合いながら働いてきました。マラヤでの艱難辛苦の末、築きあげた富と名声・・・。これを、みえない誰かに、突然奪われる恐怖に苛まされていたのでしょうか。

1階室内の様子。内部は仕上げが残っていない(写真:©︎宇高雄志)

城と家族と

城の建設では70人の作業員がインドのマドラスから雇いあげられ、煉瓦や大理石もインドから輸入されました。第一次世界大戦の開戦は城の建設にも影響しています。材料費は高騰し、またその後のスペイン風邪の流行で、ウィリアムの農園労働者も多くが命を落としています。莫大な予算と労力が費やされて城は完成しました。

しかし、城はできてもウィリアムの運が上向くことは、ありませんでした。彼の農園経営はうまくいかず、工事の支払いが滞りました。ウィリアムが起死回生を目指しはじめた大理石の採掘も、コーヒー農園経営も軌道に乗ることはありませんでした。虎の子のアグネスの相続財産も、しばらくは自由に運用できませんでした。困ったウィリアムは植民地政府へ資金借り入れを懇願しますが、限られた金額のみの融資となりました。結果として、ウィリアムは農園を売ることとなります。

この城で実現したはずの家族の団らんは、短い間で終わりを迎えました。息子のアンソニーは母のアグネスとともに英国に帰国。母は息子の教育を優先したそうです。アンソニーは、その後パイロットとなりましたが、第二次世界大戦で戦死しています。娘のヘレンも1926年には英国に戻り、マラヤの地に再び戻ることはありませんでした。

夫婦の間に何かがあったのか。熱帯の気候が過酷だったのか。はたまた本国へ戻らねばいけないビジネス上の事情でしょうか。今やこのあたりの細かな事情をたどることはできません。家族が英国へ帰国した後、ウィリアムは、この巨大な城で一人で暮らすことになりました。もっとも彼自身もビジネスの関係で、ポルトガルなどで暮らした期間も短くはありませんでした。

城は、その後、数奇な運命をたどることになります。ウィリアム亡き後、城はしばらく放置され、その後、アグネスにより英国系企業に売却されました。ただし城を買った会社には、資金を投じて城を完成させる企図はなく、そのまま放置されることになりました。


こうして、城は永年に渡り、ジャングルと熱帯の風雨にさらされることになりました(*2)。ホータックミン(Ho Tak Ming)による、この地域の歴史書『世代:バツ・ガジャの話』(*3)にもケリー一家や城の話が取り上げられています。同書の裏表紙に掲載された城の写真には、鬱蒼としたジャングルの樹々に囲まれて廃墟となった城がたつ様子が写っています。城の屋根の上にも樹々が生い茂り、闇をたたえた窓がぽつぽつと大きな口をあけています。

亡霊のさまよう城

今日、ケリー城が広く知られているのは、建築や、ケリー一家の足跡よりも、むしろ心霊奇譚によるからではないでしょうか。建設時に作業員が少なからず亡くなった事で、城には亡霊が出ると恐れられてきました。また第二次世界大戦の際には日本軍が処刑場として用いたとのうわさも残ります。

後に語られ始める心霊奇譚・・・夜半にウィリアムの亡霊が廊下をさまよう。ヘレンの霊が寝室に現れるなどは誰かの酔眼による錯誤でしょうか。では、夜な夜な書斎で聞こえる、不気味なささやきはどう説明したものか・・・。それにしても、この城の怪談はあまりに多いのです。城のほとんどすべての部分の説明書きに目撃談が書かれています。一つの建物にこれほど奇譚が残るものは、これ以外に知りません。

ウィリアムにとって、結果として城が未完成となったのは無念でした。エレベータは未完成のままです。また城の東側にレンガの壁をざっくり断ったかのような部分も残ります。これは未完の増築部でしょうか。ウィリアムはペラ州で十指に数えられるほどの成功者だったそうです(Ho Tak Ming, 2005)。それでも自らは成功できなかったと未練も強かったそうです。たしかにケリー城の周りのプランテーションはウィリアムのものでしたが、のちに土地の会社に売却せざるを得ないなど、挫折も経験しています。

1918年のスペイン風邪の流行では、農園で働く多くのインド人の労働者が命を落としました。そこで彼らは、ウィリアムに、ヒンズー寺院を建てることを懇願します。これに応えて、マリアマン寺院が建てられました。寺院の屋根の上には、ウィリアムの像も、ヒンズーの神像に交じって立っています。銃を捧げて軍服のような出で立ちの不思議な像でした。寺院が完成する頃には流感は収まったそうです。

城の解説文には「ケリーの夢、屈折と挫折、そして悲劇と不朽の愛」とありました。

1階の廊下(写真:©︎宇高雄志)
屋上より塔上部を見る(写真:©︎宇高雄志)

巨大採掘装置TT5:錫鉱山開発の記憶

ケリー城のあるペラ州は、錫鉱山やプランテーション開発が進められたため大変に繁盛しました。州都のイポーには、壮麗な駅舎や役所、金融機関の建物が残っています。一転して、郊外はプランテーションの広がる丘陵とともに、錫採掘跡の湖が多数点在しています。

城から車で20分程度のバツ・ガジャ地区の南部。ここに往事の採掘の様子を見ることができる産業遺産があります。通称「TT5」(Tanjung Tualang Tin Dredge No.5)として知られる産業遺産公園には、元の錫採掘を行った湖に、巨大な鉄骨造の採掘機が残されています。これは英国人の考案によるもので、元は膨大な人手を動員した中国系企業の優勢だったマラヤの錫採掘を、英国の圧倒的優位に変えたゲームチェンジャーでした。

採掘機は巨大なアームを湖の底に伸ばし、錫鉱床を掘りながら、船上で選鉱していました。要らなくなった排石は後部のコンベヤから船外に捨てて前進しました。ここで70人ほどが3交代で働いたそうです。湖は人造で、水面をこの巨体が錫を掘りながら、またジャングルを切り拓きながらすこしずつ進んでいったのです。

巨大な採掘機は水に浮いているので船に見えるのですが、「工場」の扱いとなるそうです。全長で60mに近いのですが、これでも「TT5」は中規模の採掘機とのことでした。この種の採掘装置は1940年代には全国で120基ほどもあったそうです。ただ現存する採掘機は「TT5」だけで、国家遺産(National Heritage)に指定されています。「TT5」は英国製で1938年に建造され、1982年まで稼働していました。その後、採掘会社から州政府に寄贈され整備されました。

ウィリアムをはじめ、多くの英国人がマラヤに探し求めた夢の跡が、ここにも残されていたました。

錫鉱山採掘機TT5の巨体(写真:©︎宇高雄志)


写真、イラスト:宇高雄志

(*1)  螺鈿(らでん):薄い貝を家具の表面に貼り付ける装飾。中国などの家具や調度で多く見られる。マレーシアでも中国系の廟や邸宅でも見ることができる。
(*2)  廃墟となった城は2010年代になってから州政府により観光資源として整備された。いまや学校休暇中には一日で500人を上回る訪問者があると言う。
(*3) Ho Tak Ming, 2005, Generations – The story of Batu Gajah, Perak Academy。背表紙の掲載写真より。ただし掲載写真は、建物の左右が反転している。

主な参考文献

  • Chen Voon Fee (ed.), 2007, Encyclopedia of Malaysia V05: Architecture: The Encyclopedia of Malaysia, Archipelago Press.
  • Ho Tak Ming, 2005, Generations – The story of Batu Gajah, Perak Academy.
  • Ong Kiat Hoe, 2012, “The Tin Mining Sites and Tin Mining Towns in Malaysia: Asian Mining Heritage During the Western Industrial Revolution and Colonialism Period”, The World Heritage: Welcome! TICCIH, World Heritage Publishing Limited, Taiwan, vol.19, pp.78-85.

宇高 雄志(うたか・ゆうし) 兵庫県立大学・環境人間学部・教授
建築学を専攻。広島大学で勤務。その間、シンガポール国立大学、マレーシア科学大学にて研究員。その後、現職。マレーシアの多様な民族の文化のおりなす建築の多彩さに魅かれています。なによりも家族のように思える人のつながりが宝です。(Web:https://sites.google.com/site/yushiutakaweb

建物によっては一般公開されていない部分もあります。ご訪問の際には事前に訪問先の各種情報をご確認ください。

※ 本コラム「マレーシア名建築さんぽ」(著者:宇高雄志)は、最新版のみ期間限定掲載となります。写真、イラスト等を、権利者である著者の許可なく複製、転用、販売などの二次使用は固くお断りします。
*This column, “Malaysia’s Masterpieces of Architecture” (author: Prof. Yushi Utaka) will be posted only for a limited period of time. Secondary use of photographs, illustrations, etc., including reproduction, conversion, sale, etc., without the permission of the author, who holds the rights, is strictly prohibited.

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