マレーシアは名建築の宝箱。熱帯の気候、多民族のおりなす文化的な多彩さ、また施主と建設技術者の奮闘は、多くの魅力ある建築を生み出しました。それぞれの建物にはマレーシアの社会や歴史、日々の暮らしがよく表れています。また著しい経済成長は、新しい建築を次々に生み出しています。
ここでは、マレーシアの建築の魅力とともに、それぞれが建てられた時代や背景、その見どころに迫りたいと思います。

その11 ペトロナス・ツインタワー(Menara Berkembar Petronas)
名称:ペトロナス・ツインタワー(Menara Berkembar Petronas)
用途:複合施設(事務所、商業、コンサートホールなど)
設計者:Cesar Pelli & Associates Architects
位置: Jalan Ampang, Kuala Lumpur
竣工:1999年
延床面積:約34万㎡
階数:88、最高高さ:452m
構造:鉄筋コンクリート造
クアラルンプールへ向かう車窓から、真っ先に見えるもの・・・・そのひとつはペトロナス・ツインタワーでしょうか。熱帯の濃い木々の彼方に、ツインタワーは銀の光彩をまとい、天を衝く。
その威容は、クアラルンプールの街中にはいっても変わりません。さらにタワーに近づいて、直下のKLCC公園(Taman KLCC)からの風景でも未だ輝きを失うことはありません。夜半、緑と湖の広がる公園に、銀彩のツインタワーがライトアップされ浮かび上がります。その姿は、まるでロケットが天空に飛び出しそうにさえ見えます。
その造形美は、建築後30年に届こうとしている現在も健在です。いまや高層ビルのジャングルともいえるクアラルンプールの都市景観にあっても、いまだ圧倒的なオーラをまとうと言えるでしょう。
このツインタワーの名には冠に「ペトロナス」とつけられています。ペトロナス(Petroliam Nasional Berhad)は、マレーシア国営のエネルギー会社であり世界屈指の石油産出量を誇ります。アジアを代表する高収益企業でもあり、このツインタワーに本社をかまえています。いまやこの風景は、エネルギッシュに成長を続けてきたマレーシア社会そのものをあらわしているようです。
世界の高層建物を、著書『スカイスクレイパーズ』として集成した小林克弘らは、高層建築のありさまと、それを造営し続ける現代社会をこう活写しています。スカイスクレーパーを建てること、それはすなわち「人類の知恵と能力を、人間の欲望と虚栄が後押しする」(*1)と。
ペトロナス・ツインタワーの建設にマレーシア社会はいかなる願いを込めたのでしょうか。そして、人々はどんな思いでその摩天楼を見上げているのでしょうか。
KLCC:クアラルンプール・シティーセンターとして
ツインタワーの建つ敷地はクアラルンプール・シティーセンター(KLCC)の一角を占めます。この位置も現在の首都クアラルンプールにとって重要な意味をもっています。
クアラルンプールの開発は英領下の錫鉱山開発で進みました。英領下、クアラルンプールには政庁が据えられ、鉄道駅も開業するなどマラヤの一大拠点として開発が進むことになりました。
このKLCCの界隈は、長らく緑豊かな郊外の風景が広がり、中間階層のゆったりとしたバンガローが建ち並んでいました。現在のKLCC公園のある場所には、セランゴール・ターフクラブ(Selangor Turf Club)の競馬場やポロ競技場がありました。1800年代末からレースがあり開催日には周辺の混雑も相当だったそうです。後にクアラルンプールの郊外開発が進むにつれ、1980年代にクラブの移転がきまりました。
クアラルンプールは思いのほか谷や丘が多い地形にあります。その意味で都心にこれほどの平坦でまとまった大きさの土地は限られています。そこで、競馬場を含む約40ヘクタールの土地をKLCCとして開発する一大事業が始まりました。開発に向けた計画策定では、設計案を競い合う国際コンペが開催されました。これでKLCC全体のマスタープラン、公園などのランドスケープ、また建築家が選ばれました。 もっとも、このKLCCの開発はツインタワーもしくは40ヘクタールの敷地の中のみを開発することを企図したものではありませんでした。首都クアラルンプール全体に、その開発効果を波及させ、さらに新しい開発を誘発することを狙いにしていました。いまやKLCCはクアラルンプールの要にあり、いわゆる「黄金の三角地帯」の重要な拠点となっています(*2)。工事が始まって、ターフクラブが姿を消した巨大な敷地は直ちに切り拓かれ大工事が始められました。
首相マハティールと建築家シーザー・ペリ
ツインタワーを設計した建築家は、シーザー・ペリ(César Pelli)(*3)。彼が1990年代初頭にひらかれた国際コンペでツインタワーの設計を勝ち取ったのです。シーザー・ペリは、アルゼンチン生まれでアメリカを拠点に建築家として活躍してきました。
ペリは、とりわけ高層建物の設計で数多くの実績を残し、アメリカ建築家協会からも最も影響力のある建築家として評されてきました。我が国でも多くの作品を残しており、東京都港区の「麻布台ヒルズ」、大阪市の「あべのハルカス」も彼の手によるものです。
世界の都市に建つ、おおくの高層ビルはガラスと鉄、それにコンクリートでできた、いわば背の高い巨大な箱であることに大差ないでしょう。そんな中、シーザー・ペリは建築家として、それぞれの建築が建てられる都市の固有の文化や歴史を大切にして表現しつづけてきました。ペリは、ツインタワーのデザインではマレーシアの歴史や文化を軸足に据えたのです。
ツインタワー建設当時、首相の座にあったマハティール・モハマド(Mahathir bin Mohamad)は、ニューヨークからやってきたペリを歓迎し、建築家としての力量に全幅の信頼をおきました。ペリは当時60代にさしかかっていて、マハティールとほぼ同い年です。
建設中、マハティールはツインタワーの様子を気にかけ、また完成後も夫人のシティ・ハスマ(Siti Hasmah binti Mohamad Ali)と訪れていました。その様子は新聞紙上でもよく取り上げられていました。完成後、マハティール自身はペトロナスの顧問を務め、世界で最高の高さにあるとされた86階にオフィスを構え、そこで内外のインタビューに応えていました。2019年にマハティールがペリの訃報を受けたとき、「マレーシアの象徴となる建築」を設計した「偉大な建築家」と回顧しています。
マハティールは1981年に首相の座について以降、マレーシアの経済開発成長を牽引するとともに巨大建設事業を後押ししてきました。以前、WAUでも取り上げた(*4)、クアラルンプール国際空港(設計:黒川紀章)もその一つでしょう。国内外を問わず、当代随一の建築家たちがクアラルンプールの都市景観に新しい建築物を加えてゆきました。マハティールが2003年に首相の座を去ってからも、残した「マハティールのレガシー」が偉大であるがゆえに、いまだに様々な評が飛び交っています。ツインタワーは、そのレガシーを語る際に欠かすことのできない存在です。
もっともこれには時代性を見逃すことはできません。小林克弘は、ツインタワーが建てられたこの時期を「高層建築の建設の中心は、アメリカではなく、1990年ごろからアジア」へと移ったとみています(*5)。確かに、ツインタワーが建ちあがる1990年代は、東南アジア諸国でこぞって高層ビルが建てられた時期にもあたります。シンガポールには1990年代前半にはUOBプラザ、リパブリック・プラザなどの高層ビルが次々と竣工。これはその後の香港、台北、上海、ハノイ、バンコク、ジャカルタのそれとつながってゆきます。そして2000年代以降は中東へとその中心が移ってゆきました。小林は、こうした変転のただ中で「歴史的・伝統的モチーフの採用」が顕著になっていったと指摘しています。その筆頭格がツインタワーでもありました。
もちろんクアラルンプールにも多くの高層ビルが竣工しています。ただKLCCの目玉となる建物には首都としてのクアラルンプール、ひいてはマレーシアの経済成長を祝福する、突き抜けた象徴性が求められました。これは一塊の高層建築ではなく、マレーシアを表すランドマークとしてあるべき存在でした。
ツインタワーは2004年まで、世界で最も高い建物としても知られました。マレーシア社会にとって、それは、世界一でなくてはならなかったのでしょう。二位でも三位でもなく。世界的に見ればもっと高い建物が建てられ、その座を譲ることになりました。同じクアラルンプールに建てられた「メルデカ118(Merdeka 118)」もそうでしょう。それでも、筆者はたとえ高さ競争を降りたとしても、いまだ美しさは圧倒の一位だと思います。
その建設は、国をあげて取り組まれたといってよいでしょう。一般的に建築の設計や施工の過程では無数の公的機関への届け出や検査が求められ、長い時間を要します。しかし関係者の間では、KLCCとツインタワー建設では同国では類例のないほどの早さで許認可が行われたと記憶されています。
そして工事を早める目的もあり、異なる建設会社がそれぞれのタワーの施工を担当することになりました。タワー1は、日本の建設会社であるハザマなどのJV(建設共同企業体)が。タワー2は、サムソンなどのJVが工事を担当しました。据え付けられたタワークレーンは24時間休むことなく稼働し続けました。


「ルーブ・エル・ヒズブ」
では、シーザー・ペリらはどのようにして、「マレーシアの象徴となる建築」をデザインしたのでしょうか。ここでの発想の源となったのがイスラームでした。マレーシアはイスラーム教を国教とします。これまでにWAUで取り上げた建物にも、その多くでイスラームの文化的影響が表れていました。特に公共的で社会の象徴的な建築でこれが重視されてきました。
イスラーム圏では、偶像崇拝につながりうる人物や像をモチーフとして建物などの装飾に用いることはありません。その代わりに「アラベスク」(仏:arabesque)と呼ばれる、草木や唐草を抽象化しつつ、繰り返しの幾何学文様で世界観を表現する高度な図学的表現が発達してきました。これを鮮やかな色彩のモザイクタイルなどで仕上げてゆきます。
ツインタワーでは幾何学的な形態を建物の平面に用いました。一見すると、非常に複雑に見えるタワーの平面は、「ルーブ・エル・ヒズブ(Rub el Hizb)」と呼ばれる形態に基づいています。言葉として、四分の一のものが集まっていることを示しています。2個の正方形を45度の角度をつけて交差させた形態であり、結果として8角の図形が生まれる。「八芒星」の一つの形です。その象徴性からイスラーム諸国の国旗や国章などとしても用いられてきました。
ツインタワーの高層階の平面は、このルーブ・エル・ヒズブでできる八芒星の図形に、さらに小円を8個加えた形態をとっています。これによりできた複雑な多角形の平面に、上層階にむかって大きく5段の段差が設けられています。先端に向かって細くなる、ときおり「トウモロコシ」と呼ばれるあの形が生まれました。八芒星に円を加えた細やかなリブのついたストライプが立ち上がり、よりその鋭敏さを引き立てています。イスラームモスクのミナレットのようでもあり、KLCC公園から見上げると、さらにその鋭さが際立って見えます。
ツインタワーは、北西の方角を正面に建てられていますが、それぞれのタワーは並行していません。平面的には、正面側に絞り込むようにタワーの間には約15度の角度がつけられています。そしてタワーから波紋が広がるように、幾何学紋様は敷地全体に広がってゆきます。
ツインタワーの入り口となる低層部は2本のタワーの間にあります。ここからエントランスホールに導かれ、それぞれのタワーの上階につながるエレベータホールに導かれてゆきます。ホールには、黒御影石のパターンを生かした床の石張りと、これも様々な石材と材木を生かしています。インテリアが美しい華やかな空間です。またマレーシアを代表する交響楽団のホームグラウンドでもある、ペトロナス・フィルハーモニック・ホールへの入り口も設けられています。
外壁の機械的なデザインの一方で、例えば1階エントランスの周辺には、パンダンの籠や、ソンケット織物の造形美をモチーフとしています。またインテリアには随所に木彫を施しています。これにより温かみのある空間が実現されています。コンサートホールも木のぬくもりを感じさせるインテリアで、音の響きの柔らかな心地よいホールです。
高さと美しさの両立
こうしてタワーの美しさは実現できましたが、オフィスビルとしてはジレンマを抱えることになりました。一般的に高層建築では、建物中央に背骨になるコア部分を設け、このコアの周囲を、オフィスや会議室などが取り囲む配置になります。コア部分は建物を支える構造体であると同時に、非常階段、配管設備、トイレなどが収められます。もちろん建物が高くなればなるほど、建物の背骨となるコア部分が太くなってゆきます。
ツインタワーの低層階では、コアは一辺が23mもの正方形の大きさになりました。ツインタワーではエレベーターの台数を減らす代わりに、2階建てエレベーターとし可搬人数を上げました。また中間階で乗り換えたのちに更に上階に向かうエレベーターも設置されました。
このコア部分を背骨にして、鉄筋コンクリート造の16本の柱が建物周縁に円環状に配置されました。16本の柱は地上レベルで2.4mもの太さとなりましたが、上階では細くなっています。柱はコアと梁で接合されるとともに、ルーブ・エル・ヒズブで描き出された外壁部分とつながる片持ちの床を支える役割を担いました。
もう一つの課題は、ツインタワーの事務スペースなどの賃貸可能面積でした。タワーは高層階に向かって先細りになることから賃貸可能面積は、低層階の約2000㎡から高層階の320㎡まで様々なものになりました。賃貸可能面積は長期的にも建物の収益に影響します。事業者としては可能な限り大きくしたいところです。そこで、八芒星で形作られるツインタワー本体に沿う形で、円筒形の増床部分が設けられました。この部分は44階の高さまでもうけられました。
そしてこの二本のタワーは地上170mの部分で、長さが60m余りもあるブリッジでつながっています。ブリッジは構造的にも有意で、二本のタワーの微細な挙動や変位を受け止める工夫がなされています。展望台として機能するのみならず、タワー間の避難通路としての役割も期待されました。建設時には地上で組み立て、地上170mの高さまで吊り上げられ据え付けられました。これも広く報道され国中の注目を集めました。
工事では技術的にも挑戦を強いられました。一帯の地盤は石灰岩で構成され堅牢ではありませんでした。そして地盤調査で支持地盤面が地中で複雑に傾斜していることがわかりました。また地下水の水脈も複雑でした。一方で、海風の影響などを考慮し、高強度コンクリートが採用されたことで建物全体の重量が増すことも課題になりました。結果として、ツインタワーの建築位置を60m程度、敷地南東に移動しました。そして支持地盤面の傾斜に合わせて40mから115mにおよぶ長さの基礎杭が無数にうち込まれました。
光彩をまとう「輝けるダイヤモンド」
ツインタワーはこの造形に、輝ける表皮をまとっています。ペリは「輝けるダイヤモンド」をイメージしたそうです。外部仕上げとしてステンレス鋼をパネルとしています。パネルの枚数は多種多様な大きさと形態に加工され3万枚を超すことになった。そしてステンレスの薄板の表面には、無数の小突起をつけたエンボス加工が施されています。エンボス加工により強度も高まることになった。一方で建物表面には無骨にみえるボルトなどの接合部を一切見せていません。
いまや省エネルギーなどの環境への配慮は建築でも重要事です。窓ガラスにはUVカットガラスが用いられました。強い熱帯の日射を防ぎ、空調の効率が高められました。それに加えて各階の外壁に施されたルーバーや庇は、建物に差し込む昼間の強い日差しを抑えることになりました(*6)。一方で、夜間には室内やライトアップの光がステンレスのルーバーや壁面に反射して、塔全体を輝かせることになります。
そしてこのツインタワーは、この足元に、建物の全容を鑑賞しうる広大な舞台ともいえる空間が設けられています。ツインタワーの低層階には床面積14万㎡、6階建ての商業施設「スリアKLCC」が接続しています。マレーシア語でスリア(Suria)、「太陽」を名に冠するこの商業施設は、中央部に楕円の平面の大きな吹き抜けが設けられています。吹き抜けの上部には天窓が設けられ、「スリア」の光が緩やかに差し込むとともに、ツインタワーの姿が見え隠れします。
スリアKLCCの施設自体も巧みなデザインで、中央を緩やかに曲がる三日月状に曲がるコンコースが貫いています。内部空間にダイナミズムをもたらすとともに、コンコースに面する店舗の前面を長くすることが出来ます。コンコースの吹き抜けは上下階をつなぎ一体感を増すことが出来るようになっています。
そしてツインタワーを「鑑賞」するのに最高なのは 20ヘクタールの面積を擁するKLCC公園からでしょうか。冒頭に見たKLCC計画のほぼその通り、およそ半分の敷地が公園として残されています。公園には74種、1700本が植樹されました。昼間には水と緑があふれ、夜半の光輝く大噴水の美しさ。一つの建物にとって、これほどの周辺環境に恵まれる例はそう多くはないのではないでしょうか。
ツインタワーは1999年8月31日に公式開業しました。マレーシア独立記念日であるこの日の式典にはマハティール元首相が出席し、盛大にとり行われました。ツインタワーは、イスラーム世界の優れた建築に贈られるアガ・カーン賞を受賞しています。


スカイラインを彩る高層建築群
ツインタワーのみならず、マレーシアの高層建築にはイスラーム文化やマレー民族文化のモチーフを活かす試みがなされてきました。そのうち、見逃すことのできないクアラルンプールの歴代の高層建築とそれを建てた建築家たちを取り上げます。
マレーシア巡礼基金ビル(Lembaga Tabung Haji / Menara TH Tun Razak)
KLCCからみて北西の幹線道路Tun Razak通りに面した建物。1984年竣工。高さは152m、38階建て。メッカ巡礼のための旅費を積立てる機関「Lembaga Tabung Haji」が用いる建物です。設計はマレーシア建築界の大御所、ヒジャス・カスリ(Hijjas Kasturi)(*7)です。建物はマレーシアの伝統的な太鼓を模したとされ、緩やかに中間階を絞りこみつつ、外周の5本の柱が建物を支えています。この建物が特に有名なのは、この5本の柱がイスラームの五信を現しているからとされています。マレーシアの建築界では「イスラームの象徴主義」によるものと評されています。一方で、機能的には合理的で柱は設備シャフトを兼ねています。一階ロビーの天井は、中東のモスクの天井が参照されているが、その突起部にスプリンクラーヘッドが設けられていてユニークです。工法的にはプレキャストコンクリートを用いたマレーシア初の事例となりました。建物は大きな基壇の上に建ち、前面道路にタワーと似たモチーフのスラウ(イスラームの小礼拝所)が据えられています。


ダヤブミ・コンプレクス(Kompleks Dayabumi)
クアラルンプール駅や国立モスクに近い中心街区に建つ高層建物。1984年の竣工で、高さは157m、36階建て。設計はArkitek MAA and BEP Architectsです。都市開発公社(UDA)によりセントラル・マーケット(WAU#5で取り上げた)の建つクラン川対岸を含めた再開発事業の一環で計画されました。エントランスホールにはマハティール元首相の揮毫が残されています。竹中工務店などの共同事業体により施工されました。建物はこれも幾何学的な平面で、16のリブが立ち上がります。外壁面にリブの影がうつりこみ建物の立体感が引き立っています。白亜の壁面全面を、アラベスクを模した格子がカーテンのように前面をまとっています。中央郵便局の壁面にも同じ紋様の格子がはめ込まれています。その基壇部分と、建物頂部は先頭アーチ型となっており、これもイスラーム文化を意識しています。この事務所棟とともに中央郵便局、また低層の商業施設とともに複合施設として建設されました。隣接の低層の基壇部分と、クラン川に開けていることもありクアラルンプールの都市景観の中でもその存在感は健在です。



メナラ・メイバンク(Maybank Tower)
マレーシアを代表する銀行の本社社屋として建てられました。同社の黄色の虎のエンブレムが目を引きます。竣工は1988年。高さ243mで50階建て。ツインタワー完成までは最高高さを誇りました。1970年代後半の国際コンペティションを受け、ヒジャス・カスリ(Hijjas Kasturi)の事務所が設計を行いました。小高い丘の上に建ち、丘陵の盛り上がりを受け止めたかのように屹立しています。建物の形態はマレーの伝統的な聖剣であるクリス(Keris)を模したとされます。傾斜のつく低層部から、三角形に切り取られた頂部へとつながってゆきます。縦目のストライプが高さを引き立てています。基準階平面は、二つの正方形がコア部分で重なり合うように配置され、これが建物頂部では交差する45度の傾斜屋根につながっています。一方、低部では裾が広がるように広げられロビーや受付機能が据えられています。建物のエントランスは、一時期はKL最大のバスターミナルがあったプドゥ通り(Jalan Pudu)などが交わる三叉路からエスカレータでつながっています。このエスカレータにかけられた積層する傾斜屋根は、鉄骨トラスで支えられ、マレー民家の屋根をモチーフにしたとされています。


写真、イラスト:宇高雄志
(*1) 小林克弘、2015「高層建築デザインの発展史」:小林克弘, 永田明寛, 鳥海基樹, 木下央(編)『スカイスクレイパーズ: 世界の高層建築の挑戦』鹿島出版会、pp.27-28.
(*2) クアラルンプール中心のおよそ3kmの辺で構成される三角形の範囲の市街地。KLCCはもちろん、ブキビンタン(Bukit Bintang)などの一大商業センターを含む。
(*3) シーザー・ペリ(César Pelli)[1926-2019] 建築家。アルゼンチンで生まれ、後にアメリカに移住する。イリノイ大学などで建築を学び、建築家ユーロ・サーリネンの下で腕を磨いたのちに、自らの事務所を構えた。ここにはランドスケープデザイナーの妻のダイアナの姿もあった。この間、イエール大学などでも教鞭をとり多くの建築家に影響を与えた。2019年の没後にも建築作品は建てられていて、東京で2023年に完成した麻布台ヒルズの高層棟もその一つ。
(*4) 拙稿「マレーシア名建築さんぽ #2 クアラルンプール国際空港(KLIA)」WAU、2022.12.25.
(*5) 小林克弘、2015、既出、pp.27-28.
(*6) 庇により直射日光を和らげることで省エネルギー効果が期待できる。一方で、ルーバーそのものの製造加工からリサイクルにかかる一連のエネルギー消費をどう評価するかも議論されている。
(*7) ヒジャス・カスリ(Hijjas Kasturi)[1936-] シンガポール生まれ。メルボルン大学などで建築を学ぶ。建築家としてシンガポール政府再開発公社(URA)、オーストラリアの設計事務所で勤務した。その後、マラ工科大学の前身の機関の立ち上げに尽力しつつ、同校に初の建築教育プログラムを設立するなど教育的な業績も多い。クアラルンプールに自らの建築設計事務所を立ち上げてからは、マレーシア建築界に名を刻む作品を残してきた。その作品は、都市デザインや高層ビル設計、歴史的建造物の再生に至るまで幅広い。また自らの提供した建物を舞台に、芸術家育成にも取り組んでいる。
主な参考文献
- Chen Voon Fee (ed.), 2007, Encyclopedia of Malaysia V05: Architecture: The Encyclopedia of Malaysia, Archipelago Press.
- Paul McGillick, 2008, Concrete Metal Glass: Hijjas Kasturi Associates Selected Works 1977-2007, Editions Didier Millet.
- Ross King, 2008, Kuala Lumpur and Putrajaya: Negotiating Urban Space in Malaysia (ASAA Southeast Asia Publications), University of Hawaii Press.
- 小林克弘, 永田明寛, 鳥海基樹, 木下央(編)、2005 『スカイスクレイパーズ: 世界の高層建築の挑戦』鹿島出版会.

宇高 雄志(うたか・ゆうし) 兵庫県立大学・環境人間学部・教授
建築学を専攻。広島大学で勤務。その間、シンガポール国立大学、マレーシア科学大学にて研究員。その後、現職。マレーシアの多様な民族の文化のおりなす建築の多彩さに魅かれています。なによりも家族のように思える人のつながりが宝です。(Web:https://sites.google.com/site/yushiutakaweb)
建物によっては一般公開されていない部分もあります。ご訪問の際には事前に訪問先の各種情報をご確認ください。
※ 本コラム「マレーシア名建築さんぽ」(著者:宇高雄志)は、最新版のみ期間限定掲載となります。写真、イラスト等を、権利者である著者の許可なく複製、転用、販売などの二次使用は固くお断りします。
*This column, “Malaysia’s Masterpieces of Architecture” (author: Prof. Yushi Utaka) will be posted only for a limited period of time. Secondary use of photographs, illustrations, etc., including reproduction, conversion, sale, etc., without the permission of the author, who holds the rights, is strictly prohibited.