マレーシアは名建築の宝箱。熱帯の気候、多民族のおりなす文化的な多彩さ、また施主と建設技術者の奮闘は、多くの魅力ある建築を生み出しました。それぞれの建物にはマレーシアの社会や歴史、日々の暮らしがよく表れています。また著しい経済成長は、新しい建築を次々に生み出しています。
ここでは、マレーシアの建築の魅力とともに、それぞれが建てられた時代や背景、その見どころに迫りたいと思います。
その9 マレーシア国立博物館:「マレーシア」をまとう博物館建築
名称:マレーシア国立博物館(Muzium Negara)
用途:博物館、文化財局庁舎
設計:ホー・コックホー(Ho Kok Hoe)
位置:Jalan Damansara, Kuala Lumpur, Malaysia
竣工:1963年
敷地面積:約6ヘクタール
構造:煉瓦など
階数:3階
最高高さ:37.8m
構造:鉄筋コンクリート造
丘の上に建つ巨大マレー民家
天を衝く高層建物の林立するクアラルンプールにあって、この国立博物館の存在感はいまだ健在です。KLセントラル駅(KL Sentral)の北にある緩やかな丘に、マレー民家か王宮を彷彿とさせる大屋根をかかげ、その正面には巨大な壁画が描かれています。
単純に、博物館の建設コストや使いやすさだけを優先すれば、単純な四角い箱の建物になるでしょう。
ただし、この博物館が完成した時期は1957年のメルデカ(独立)からわずかな年数しかたたない1963年。マレーシア連邦成立の直後、国王は8の「国家的シンボル」の造営を謳っています。スタジアムや記念碑などのリストの中に「国立博物館」が含まれていました。財政的な制限を抱えつつも、この博物館は独立の記念碑としての意味を纏い建てられました。
それは、この建物の役割と、そのデザインの持つ意味に、今に増して重要な期待が込められていたからです。英国による植民地支配を脱し、独立を獲得した新生国家「マレーシア」をあらわす何か。それがこの博物館の建築空間に求められたのです。
博物館は、古物や標本を収納する単なるハコではありません。規模の大小を問わず、それを有する集団の有様と記憶を、内外に向けて語る役割を担います。同時期の首都クアラルンプールには、それぞれ「独立」や「国立」などを名に掲げた建築が次々に建てられていきました。国立モスク、独立スタジアム・・・そして国立博物館もそうでしょう。建築史家のライ・チーキアン(Lai Chee Kien)は、一連の建築を「独立建築」とよびました(*1)。
英領下の博物館:国立博物館前史
マレーシア初の博物館は、英国植民地下の1886年に、錫鉱山開発で注目されていたペラ州のタイピンに設けられました。ボルネオ島のサラワクには、1891年に現在の州博物館の前身となる館も「白人王」(white Raja)の主導で完成しています。
もっともこれらの博物館は、今日のように、教育や観光を専らの目的としたものではありません。植民地支配では、各地の植生や地質学的特性を確認し、標本を集め、それが支配者に益をもたらすか否かを分析することが重視されました。それは実利的でした。
その後、1907年にはマレー連合州の博物館がセランゴール博物館として設けられています。この設計はアーサー・ヒューバック(Arthur Benison Hubback)が担いました。クアラルンプール駅を設計した名建築家です。セランゴール博物館は、クイーンアン・リバイバル様式の建物で尖搭を有するドームが正面の両脇に屹立していました。展示物は主に植物など自然科学に関係するものが多く収蔵されていました。
1942年からの日本軍政下では、博物館は軍管理下にありました。館長以下の幹部は日本人が任命されました。ところが終戦に差し掛かる1945年の3月、英軍が空爆を行い、博物館の建物と展示物が破壊されました。爆撃後、展示物は急遽タイピン(ペラ州)へ疎開されました。
その後、日本軍の降伏に伴い再び英国側が博物館を管理するようになりました。大破したセランゴール博物館を前に、英国人館長のパグデン(H.T.Pagden)は博物館の再建を目指しますが、折しも政情が不安定となり1953年まで本格的な再建は見送られることになります。
そこでセランゴール博物館の敷地に、仮の博物館を建て急場をしのぐこととなりました。ただし、この切妻屋根で木造平屋の仮博物館は140㎡弱の大きさしかありませんでした。到底、全ての標本を展示し、収蔵庫に保管する余裕はありません。
そこで打ち出されたのが、国立博物館の建設計画でした。
世界のどこにもない博物館を建てること
建設計画は1958年に始動します。初代マレーシア首相のトゥンク・アブドゥールラーマンにより提唱され、内閣が承認。すぐに建築家が探されました。指名された建築家はホー・コックホー(Ho Kok Hoe)(*2)。そして建築工事の入札も行われました。設計を受諾する過程で、首脳はホーに「マレーシアの博物館が欲しい。この土地ならではの何か。どこにでもあるガラスの箱のようなものではなく。あなたにそれができるか」と問いかけたという(*3)。建築家としては相当に重い問いかけです。まして、政府首脳から国民、そして新生国家の行方には国際社会も注目しています。
当時マラヤであったシンガポール生まれのホーは、芸術家一家に育ち、幼少期から美的なものへの関心が強かった。彼の父も建築家でした。
実はホーが設計を行う前、公共事業局の建築家シップレイ(Ivor Shipley)が設計を行っていました。ただし、彼の案はマレーシアの伝統や文化を表していないとして、首脳らの気持ちをつかむことは出来ませんでした。国立博物館には世界のどこにもない、この地域、マレーシアの建築文化を用いて建築を建てることが求められていたのです。
首相は、設計を担当することになったホーをみずからの生地でもあるケダ地方に同行させ、アロースターの会堂、バライ・バサール(Balai Besar)を見せます。これに続いて、ホーは、マレー半島の町や村をくまなく訪問しました。彼は民家や王宮などの伝統的な建築のみならず、人々の暮らしをつぶさに見ました。柱や梁、窓などのそれぞれの建築要素のみならず、熱帯の気候のもと、どのようにマレーシアの人々が暮らしているのか。そしてその美しさを。
国立博物館は1963年に完成し、独立記念日に開館しました。建物の複雑な形態や、重機の使用が限られる当時の建築技術を考慮するとこの施工速度は相当に早い。
首相はこの博物館を「この建築はロンドンにもニューヨークにもなく、マラヤにしかない」とたいそう気にいりました。モハマド・タジュディンは、この建物は政治史上のモニュメントであり、マレー系の政治的力をあらわしている、とその歴史的な重要さを読み取っています(*4)。
完成記念式典の首相スピーチでは「アメリカ人の記者が、この博物館をジャングルの家の様だ」とつぶやいたことを紹介しました。このスピーチは好奇心を呼ぶことになり、開館まもなくの新しい博物館には人々が殺到することになります。
ただし、こうして開館の日を迎えましたが、戦時空襲で失われた展示物が多くありました。また仮館に保管された文化財も限られていました。このため、合計4室設けられた展示室を埋めることができそうもなく、当初は1室の展示から始めてはどうかとの提案もありました。展示物を充実させつつ、セランゴール博物館では含まれていなかったマレー半島東海岸やマラッカのプラナカンについての文化遺産を含めることとなりました。
展示空間の整備には、英国のビクトリア・アルバート博物館の専門家もアドバイザーとして参加しました。また展示物の複製作成でも海外からの技術支援がもたらされました。標本を収集するためにスタッフはジャングルに分け入って探し求めました。また中国系やインド系の篤志家たちも、それぞれの所有する貴金属を博物館に寄贈しています。インドの伝統的な楽器もこの際に寄せられました。現在も展示室に結婚式の際の装束や装飾が多く展示されていますが、これらも同時期にそろえられたものです。こうした篤志家の寄付や館員の奮闘もあり、結果として3室をもって開館することができました。
簡潔で合理的な空間構成
博物館の敷地は豊かな緑の広がる緩やかな丘陵を背に、クアラルンプール市街を見下ろす丘のふもと、南側を正面に建てられました。現在、その敷地は2本の主要幹線道路に挟まれています。建設時は南側の通りのみがあり、北側のダマンサラ通りはありませんでした。北の丘の上には、警察宿舎が点々と建っていました。
現在はKLセントラル駅に連なる高層ビル群が正面に建っていますが、往時は博物館の正面玄関からは眼下にクアラルンプールの市街を一望できたに違いありません。1980年代前半に撮影された周囲の航空写真を見ると、南の通りの反対側には大きな鉄道貨物ヤードとブリック・フィールズの街があります。周りに目立った大きな建物もなく、今に増して存在感があったでしょう。
ホーは、博物館の設計にあたって、伝統的なマレー民家や王宮の建築空間から発想を得ました。建物が左右対称なのは、ヌグリスンビラン州のアンパン・ティンギ宮殿(Istana Ampang Tinggi)などのマレー王宮からアイディアを得たためです。正面に玄関口を設け、そこから左右に分かれるように室を設けています。国立博物館も同じくこの空間構成になっています。
建物は、緩傾斜を活かして南を正面に建っています。また、建物はすべてがシンメトリー(左右対称)で構成されています。建物正面を含む外周全て、建物内部も見事にシンメトリーです。
ちなみにホーにより示された初期案では、現在、東西に両翼を伸ばす博物館の棟と同じ形、大きさの別棟が北側に計画されていたようです。そして中央ホールが南北の棟を繋ぐアイデアだったようです。
玄関口は左右に噴水池が配置され、玄関に上がる大階段の左右には波を意識したかのようなオブジェが据えられています。そして上部には二重にかぶせられた切妻屋根の妻がそびえます。棟にそびえる「千木」のデザインは、どこか出雲大社を彷彿とさせます。
建物の平面構成は、中央に高い吹き抜けを持つホールがあり、そこを中心にして左右に展示室が2層分、合計4室が配置されています。展示空間は、中央ホールを起点に、ギャラリーはAからDまであります。中央ホールは臨時展示の空間としても想定されています。ここから左右に振り分けられたギャラリーに、時間の流れにしたがって導かれます。
中央ホールから2階の展示室へは、両翼に分かれる大階段からつながります。ゆったりとした基壇から上る階段は、どこかマレー村落、カンポンの高床民家に見られる階段を彷彿とさせます。階段周りは、テラゾ(人造大理石)で仕上げられています。
この階段周りは動線が複雑で、階段の両脇に下りの階段があり、これを通じて地上レベルの北側出口へつながります。この階段の踊り場の中央壁面には大理石の石盤が掲げられています。マレーシア語と英語で、国王、首相のアブドゥール・ラーマン、博物館館長とともに建築家としてホーの名前が刻まれています。1963年の独立記念日、8月31日に開館されたことも。
1階左手のAは、先史ギャラリー。自然環境のジオラマとともに、石器や土器などが並びます。右手のBは、マレー王国ギャラリーが配されています。アジア海域社会に広がるマレー文化、またマラッカ王国をめぐる交易やイスラームなど様々な文化の影響について展示されています。
中央ホールから二階へは大階段で導かれます。ギャラリーAの上部にあたる部分にCの植民地時代ギャラリーが。その反対側に、現在のマレーシアをテーマとしたDが配置されています。CからDに至り、ポルトガルから英国、日本にいたる植民地支配、またこの博物館そのものが体現しているともいえるメルデカ(独立)の経緯が展示されています。独立以降のマレーシアの社会開発の軌跡も見どころ。国立博物館の展示については、〈WAU ワウ〉に掲載されている古川音さんの記事「まるで大河ドラマなマレーシア国立博物館」にその魅力が余すところなく紹介されています(*5)。
4室の各ギャラリーはそれぞれに相当の大きさがあります。また内部は観覧経路が迷路のように曲がりくねって設定されています。一般に、博物館や美術館の計画の難しさは展示空間のサイズの設定と観覧者の動線計画にあります。広いと展示品を増やし内容を充実できますが、観覧者は広すぎて疲れてしまうでしょう。かといって狭すぎると展示を充実できず、観客は満足しません。また観覧経路と、管理者のサービス動線が無用に交錯することも避けたいもの。複雑なパズルを解くような難問群が建築家の前に立ち塞がります。
国立博物館の場合、一つのギャラリーを見終わると、天井の高い中央ホールに戻り、観覧者はひと息つくことができます。そして次のギャラリーに向かう。限られたスペースで上手に配置されているといえます。個々のギャラリーの大きさも、広すぎず狭すぎず、適当な規模と言えるのではないでしょうか。古代から現代に至る、時間の経過に従った展示配置も明瞭です。
ちなみに、中央ホールとギャラリーAとBのある「1階」は、日本の建物では「2階」にあたります。建物はマレー民家や王宮と同じく、高床式。この階下、地上レベルには管理部門の諸室が配置されています。博物館のような展示施設に求められる、サービス動線の切り分けも的確に行われています。一般に、博物館のような展示施設が使えなくなり建替えが必要になる契機は、管理部門の手狭感や、設備の陳腐化による場合も少なくありません。
一見すると、複雑な形態をしている博物館ですが、建築計画上、きわめて合理的に行われていることがわかります。それでいて飽きさせないデザインをまとい、佇まいに奥行きがあります。
マレーシアをあらわした建物デザイン
国立博物館の特徴は、その外観のデザインにあると言ってよいでしょう。外観もマレーシアの伝統的な建築文化を用いて設計されています。もっとも、伝統的なマレー民家の形態は、熱帯の気候下で元来、合理性を有しています。強い日射を避けるための深い庇や、急な勾配の屋根はスコールをうけとめるのにも優れているでしょう。
中途で緩勾配になる傾斜屋根(dual-pitched roof)は、マラッカやブギス、またトレガンヌの民家の形を彷彿とさせます。階段や庇の装飾では、建物の細部でもマレー民家のモチーフが慎重に選ばれました。特に階段の手すり回りは繊細なデザインが施されており、特に北側入り口から中央ホールに入る階段周りの手摺子の形は、刀剣か水牛の牙だろうか・・・弧をえがく木材が切り出されていて面白い。
屋根の形状では、ホール上部の傾斜屋根はアロースターのバライ・バサール(Balai Besar)を。両翼の屋根はそれぞれにマラッカやヌグリスンビランのマレー民家の屋根を模しているという。設計段階では、伝統的な民家のように、屋根葺き材を木材で仕上げることが検討されましたが耐久性を考慮して、現在の赤褐色の瓦が葺かれることになりました。軒先にはマレー民家で見られるような、桁を突出した細部意匠もあります。
このように建物のモチーフは、伝統的なマレーの建築文化からヒントを得つつも、建物の構造は鉄筋コンクリート造(RC造)が選ばれました。RC造は、耐久性や耐火性に優れ、コンクリートは可塑性が高い。例えば曲面の装飾を造るのにも適しています。マレー民家の伝統的な紋様や彫刻を随所に用いながら、材料は近代的な鉄やコンクリートを選んだのです。
博物館の大きさは東西方向におよそ110m、南北方向の奥行きが15m、最高高さは38mにおよびます。RC造が選ばれたことで、柱と柱の間(スパン)を大きくし、展示室の真ん中に、柱のない大きな展示空間がつくられました。柱がないことで、客の動線を妨げることがない上に、後年の展示企画や変更にも優れています。
建物は、マレー民家に見られる高床式をモチーフとし、26本の柱が持ち上げているように見えます。東西方向に広がる両翼に、見かけ13本配置されていることになりますが、それぞれがマレーシア13州を表すとされています。
2階の展示室は、屋根の形が内部にも表れています。船底天井の様になっていて、頂部には空調などの設備が通されています。建築後の改修で付け加えられたと思われる天井部分もありますが、この傾斜した屋根面が内部から見えるのもマレー民家の内部空間を彷彿とさせます。
中央ホールの上部も、展示室のそれよりはやや緩やかな船底天井です。ただ、東側の上部には張り出しがあり、妻側の内壁面は左右対称ではありません。空調などの設備の増設によるものでしょうか。竣工時の図面にもこの部分は描かれていません。
インテリアの細部装飾で木彫を行ったのは、クランタン州などからやってきた職人でもありました。各州から集められた職人たちが技を競いながら博物館の各部の木彫を施していきました。その図案は草花のモチーフを用いながら抽象化されています。特にアロースターのバライ・バサールからは影響を受けています。
博物館が建てられたのは、マレーシアに鉄筋コンクリート造などの新しい建築構法が普及し始めた時期のこと。実際に多くの「独立建築」は鉄筋コンクリート造が選ばれています。当時の先進的な技術に加えて、伝統技術による装飾が加えられたのです。
今や、マレーシアの文化財修復では、伝統的な技能を有している職人を育て確保するのが難しく、海外から職人を招いている状況です。ある意味、博物館の建物にはこの時期には生きていた伝統技術を刻みこんだかのように見えます。
物語としての大壁画
国立博物館の象徴性を高めているのは、前面の巨大な壁画でしょう。この壁画そのものが博物館のテーマであるマレーシアの歴史と文化を余すことなく表しています。壁画は片側だけで、およそ幅35m、高さ6mに及びます。独立からまもなくの時期に製作されただけに、ナショナリズムの影響が強い。同じ時期に建てられた多くの「独立建築」にも壁画がもうけられています。図書言語研究所(Dewan Bahasa dan Pustaka)の建物正面もそうです。
国立博物館の壁画の図案は、当時30代だった芸術家、チョン・ライトン(Chong Lai Tong)(*6)によって作成されました。彼の名は、西側壁画の右手端に刻まれています。当初は、バティックのデザインとして考案されたものでした。チョンは、1962年に総理府主催の博物館壁画のデザインコンテストで受賞。これが芸術家としての彼の代表作となりました。
東側の壁画は、12世紀からのマラヤの歴史が物語絵巻のように描かれています。英国や日本による植民地支配や鉄道の開通、ゴムプランテーション開発などが捉えられ、最後は1957年の独立までが刻まれています。西側の壁画はマレーシアの歴史的文化や工芸が捉えられています。バティックや影絵、伝統的なゲームなどもそうです。
チョンによる当初案では、人物は裸体で描かれていたという。一つの国民としてマレーシア人を表現したものだったという。しかし、のちの検討段階で衣装をまとった姿になります。これは市民の裸体への受け止めや、東洋の文化を尊重したものだと言います。壁画本体の施工には当時の価格で10万リンギを要しましたが、シンガポールのゴム会社、リー・コンチャンの寄付が重要となりました。硝子モザイクの材料政策はイタリアの製造業者により準備されました。
マレーシアの歴史に伴走して
国立博物館の展示物は、屋外にも見どころが多い。ペナンヒルのケーブルカーや、マラヤ鉄道(KTM: Keretapi Tanah Melayu)の往年のディーゼルカー「SERI MENANTI号」や、1927年の英国製T型蒸気機関車も見逃せない(*7)。プロトン社製造の国産車「SAGA サガ」も飾られていて、この名車が、すでに歴史上の事物になっているのだと思うと感慨深い。
そうかとおもうと、北側の広場では歌謡ショーが行われたり、マレーシアの街角でおなじみの屋台も並んだりしている。マレーシアの日常が生きた形で演出されています。
古今東西、民家の建築文化は、新しい建築を生み出す際の発想の源になってきました。これが公共建築や商業建築のデザインとして、拡大縮小し、反転させ、色を塗り替えて用いられます。それらは時にナショナリズムや懐古趣味をかきたて、場合によれば観光客呼び込みの格好のネタにもなったでしょう。ただし、歴史的な背景も大きさも、構造も材料も異なる建物に、民家のデザインを「コピペ」し収めるのは易しいことではありません。それらが、時にキッチュだと冷笑の的になったり、時間がたってからなんともいない陳腐さを纏ったりする建物も少なくないのではないか。
その意味で、国立博物館の凛とした佇まいから、切れ味の良い細部。合理的な構造配置や平面計画の上質さは、時間の経過を感じさせません。博物館では1991年に増築工事が行われました。これはKumpulan Akitek(*8)が設計を担当しました。新旧の博物館建物は渡り廊下で結ばれました。ここには文化財局と新しいギャラリーが入っています。1996年には博物館建物自体が、古物法(Antiquities Act)の文化財として登録されています。最近ではMRT・カジャン線の「国立博物館駅」が開業しアクセスもより容易になりました。
バライ・バサール (ケダ州・アロースター)
ホー・コックホーらは、国立博物館の設計で様々なマレー民家や王宮のデザインを参考にしたことは先に述べました。このなかでも、ケダ州・アロースターのバライ・バサール(Balai Besar)の影響は大きかったとされています。
バライ・バサールは1926年に当初の建物が建てられ、その後、ケダやタイの支配者により長年にわたり再建が繰り返されてきました。機能としては王宮の会堂であり、ケダ州のスルタンにより建築されています。英領下でも増改築をへながらも同じように用いられてきました。
アロースターの中心に位置する広場に面して、建物の中央に玄関を設け、2階の会堂には正面の両脇にすえられた大階段であがります。中央にホールがあり、奥部には増築部となる南北の室が設けられています。側面では、柱が深い軒を支えています。屋根は国立博物館のそれと同じく勾配屋根がかかり、板で葺かれています。階段の欄干などは鋳鉄で仕上げられています。
ケダ州はマレー半島の北部にあり、地理的にタイに近い。バライ・バサールの意匠にも応分にタイの影響を感じます。国立博物館の完成直後、マスコミ報道で国立博物館はタイの文化的影響が強い、「タイに発想を得た」と報じられたという。これに対して、建築家のホー・コックホーは、外観と機能ともに「マレーシアの建築文化」に発想を得た、と強調する場面もありました(*9)。設計の過程で、当時の首相ラーマンが、ホーとともにバライ・バサールを視察に訪れています。マスコミ報道はこのことにも影響されたのかもしれません。
たしかにバライ・バサールの全体としての雰囲気は国立博物館と似ています。しかし、改めて細かく観察すると異なる点は少なくありません。屋根勾配は、国立博物館のほうがよりきつい。また建築初期のバライ・バサールは妻入りで単室の構成でした。
国立博物館の設計は、一つの建物の写しではないようです。バライ・バサールを含む、ひろくマレーシアの建築文化を、ホーをはじめとする設計者や関係者らが深く慈しみました。その結晶が、国立博物館として生み出されたのでしょう。
*
博物館訪問を終え、再び、南側の玄関口から、街に出る。往時は、その向こうの鉄道のヤード、ブリック・フィールズの街並み、そしてクラン川を経て、メルデカスタジアムを遠望できたでしょう。今や、KLセントラルにとりつくホテルやオフィスからなる高層ビル群が見えるのみです。過去から現在、そして未来につながるダイナミックな国家の発展をこれほど感じることのできる場はないでしょう。
写真、イラスト:宇高雄志
(*1) Lai Chee Kien, 2007, Building Merdeka: Independence Architecture in Kuala Lumpur 1957-1966, Petronas.
(*2) ホー・コックホー(Ho Kok Hoe)[1922-2015] シンガポール生まれ。オーストラリア・シドニーで建築を学ぶ。帰国後、父(ホー・コンユ―。アジア人としての初の登録建築家)の会社で建築設計(Ho Kwong Yew & Sons)に従事。建築家として活躍する一方、市議会議員やシンガポール芸術協会の代表をつとめた。絵画芸術への造詣が深い。
(*3) Lai Chee Kien, 2007, op.cit., p.68. ライのホーへのインタビューによる。
(*4) Tajuddin Mohd Rasdi, 2010 “Preface”, Nor Hayati Hussain (author), Nooridayu Ahmad Yusuf and Nathaniel Woon (eds.), Muzium Negara, MASSA monographs.
(*5) マレーシア文化通信〈ワウ〉ウエブサイト、古川音「まるで大河ドラマなマレーシア国立博物館」 URL: https://hatimalaysia.com/8132、開設:2023.3.21、閲覧:2024.9.27.
(*6) チョン・ライトン(Chong Lai Tong)[1932-]中国・広州生まれ。移民として家族とともに1938年にクアラルンプールに到着した。両親ともに美術に秀でており、父は書家としても活躍した。チョン自身は夜間学校の美術クラスで美術を学んだ。ここで頭角を現しのちに米国や英国で美術を学んだ。芸術表現における東洋と西洋との相違と共通点を意識して制作をつづけた。国内外における多くの芸術賞を受賞している。
(*7) マレーシア文化通信〈ワウ〉ウエブサイト、宇高雄志「マレーシア名建築さんぽ #6 クアラルンプール駅」 URL: https://hatimalaysia.com/8963、開設:2024.1.8、閲覧:2024.10.1.
(*8) 1964年設立。シンガポールとクアラルンプールに事務所を置き、国立モスクを設計したIkmal Hisham Albakri・イクマル・ヒシャム・アルバックリが主導した。
(*9) Lai Chee Kien, 2007, op.cit., p.74.
主な参考文献
- Chen Voon Fee (ed.), 2007, Encyclopedia of Malaysia V05: Architecture: The Encyclopedia of Malaysia, Archipelago Press.
- Lai Chee Kien, 2007, Building Merdeka: Independence Architecture in Kuala Lumpur 1957-1966, Petronas.
- Nor Hayati Hussain (author), Nooridayu Ahmad Yusuf and Nathaniel Woon (eds.) 2010, Muzium Negara, MASSA monographs.
- Richard Harris, 2006, The National Museum of Malaysia: A Case Study in the Representation of National Identity, Chukyo Keieikenkyu, 16-1, pp.95-115.
- Department of Architecture, Faculty of Engineering, Universiti Malaya, 1998 “Balai Besar Balai Nobat, Kedah”, Linda Yap, Kamariyah Kamsha, Susan Bleackley, (eds.), Mubin Sheppard Memorial Prize, vol.2, Badan Warisan Malaysia.
宇高 雄志(うたか・ゆうし) 兵庫県立大学・環境人間学部・教授
建築学を専攻。広島大学で勤務。その間、シンガポール国立大学、マレーシア科学大学にて研究員。その後、現職。マレーシアの多様な民族の文化のおりなす建築の多彩さに魅かれています。なによりも家族のように思える人のつながりが宝です。(Web:https://sites.google.com/site/yushiutakaweb)
建物によっては一般公開されていない部分もあります。ご訪問の際には事前に訪問先の各種情報をご確認ください。
※ 本コラム「マレーシア名建築さんぽ」(著者:宇高雄志)は、最新版のみ期間限定掲載となります。写真、イラスト等を、権利者である著者の許可なく複製、転用、販売などの二次使用は固くお断りします。
*This column, “Malaysia’s Masterpieces of Architecture” (author: Prof. Yushi Utaka) will be posted only for a limited period of time. Secondary use of photographs, illustrations, etc., including reproduction, conversion, sale, etc., without the permission of the author, who holds the rights, is strictly prohibited.